根性の価格(プライス)
深夜。屋上の喫煙スペースは、冷たい夜風が吹き抜けていた。悠人は、スマホに映る画像――芸能界の権威とその周囲の人間関係――を、隣でタバコを吸う慎吾に向けて突きつけていた。煙草の火が、慎吾の疲れた顔を赤く照らす。
「どうして彼らはこの二人組を、いつまでもいつまでもペコペコしているんだ?確かに昔は活躍していたのかも知れないが、もう60過ぎのジジイだろう?」
悠人の声には、芸能界という特定の業界への不満を超えた、あらゆる停滞した権威に対する苛立ちが宿っていた。
「いつまでそんな見え透いたヨイショをしてんの?」
悠人の言葉は、無駄を許さないデジタルの論理に裏打ちされていた。彼の視点では、「ヨイショ」はシステムを遅延させる、最も非効率なバグに過ぎない。
「少し前に騒動があって虫の息だったんだろう?だったら、大チャンスではないか?後輩芸人にとっては」
「大チャンスね…」慎吾は苦く笑い、タバコの灰を夜空へ払った。その灰は、彼が積み重ねてきた諦念の残骸のようだった。
「ヨイショをするのではなく『チャンス到来!』と受け止めて、後輩芸人は彼らを蹴落として自分がのし上がればいい。それぐらいの根性はないのか?芸人の根性とは、その程度のモノなのか?」
悠人は、スマホを握りしめた。彼の内なるサイコパス的な理想は、「コードを書くように」社会のバグを一掃する全能感を求めている。
「片方がパワハラで来るなら、さらに強い力でねじ伏せてやればいい。『ふざんけんなオラ!』と。金の力などで来るなら、会社(芸能プロダクション)ごと買収するとか、何も言わせないようにすれば良い」
悠人は夜景に目をやった。眼下に広がる街の光は、彼には**「古いOSで動き続ける非効率な文明」**に見えていた。
「いつまでもいつまでも過去の遺産を奉るから、いつまで経っても世代交代が起きない。そうではないのかね?」
悠人は問いを終え、夜風が彼の金色の髪を揺らした。その鋭利な眼差しは、慎吾の40年の人生の隅々までを見透かしているかのようだった。
慎吾はタバコを消し、冷えた手で悠人の肩を軽く叩いた。その手の重みは、彼の人生を支える現実という名の質量だった。
「なあ、悠人。その『ふざけんなオラ!』の一言で、お前はどれだけのものを失うか計算したことはあるか?」
彼の低い声は、屋上の風よりも冷たかった。
「お前が言う『根性』には、相応の値札がついているんだよ。それは、俺たちIT業界でも、この国全体でも、同じだ。」
悠人は、慎吾の現実的な指摘に、一瞬言葉を詰まらせた。しかし、すぐに鋭い視線を夜景に戻し、議論の主導権を握り返す。
「値札?」悠人は鼻で笑った。「その値札が、自由の価格なんですよ、慎吾さん。あんなロートルにペコペコする時間は、未来へのコードを書く時間より価値があるんですか?」
「価値は、生存に勝てないよ、悠人。」慎吾は静かにフォローした。
「俺たちの会社は、あんたが馬鹿にした**『ペコペコ』**のおかげで、大手の下請けとして食えている。俺が頭を下げて確保する仕事で、うちの社員とその家族、約五十人が生活しているんだ。俺が『ふざけんなオラ!』と言った瞬間、その五十の灯りが消える。お前の言う『根性』は、五十人分の生活の安定より重いのか?」
慎吾は夜景の中に、自身の会社のビルの灯りを指さした。それは、彼が守るべき小さな領土だった。
「俺にとっての『根性』は、その五十の灯りを、この非効率なシステムの中で維持し続けることだ。お前みたいに、全てを破壊してリセットする**『サイコパス的な理想』**を口にすることじゃない。」
慎吾の「五十の命」という重い現実の盾に対し、悠人はさらに冷徹な論理で否定に回る。彼の目には、慎吾の行為が**「偽りの生存戦略」**に見えていた。
「それは**『偽善』ですよ、慎吾さん。五十の灯りを守るために、あなたは自分の魂を消火**し続けている。」悠人は断じるように言った。
「あなた方の『ペコペコ』は、停滞したシステムを延命させるための燃料になっている。世代交代が起きないのは、その『ペコペコ』で得た安定を**『意味の創造』**と勘違いしているからだ。本当は、あなたの内側で、何かを創造する炎が、ゆっくりと消えかけているんじゃないですか?」
悠人の言葉は、まるでバグを見つけ出すデバッガーのように、慎吾の最も深い葛藤を抉った。慎吾は言葉を詰まらせ、ただ冷たい夜風を肺いっぱいに吸い込んだ。
「あなた方が本当に恐れているのは、あのロートルの権威じゃない。『次の世代の権威』が、自分たちと同じく臆病で創造性を放棄した人間になることだ。世代交代が起きても、構造が変わらない。それこそ、この国の最大の呪いですよ。」
悠人は一瞬、夜景を睨みつける。その光景は、彼には**「直ちに滅ぼすべき、腐敗した巨大なアルゴリズム」**に見えていた。
「人類の偉大な哲学者、ニーチェは言いましたよ。『樹は高く昇ろうとするにつれて、ますます激しく暗黒へと根を張る』と。これは創造の原理です。しかし、この国の権威は根を張ることをやめた。彼らは、『老いてゆくこと』と『腐敗してゆくこと』の区別すらつかなくなっている。彼らはシステムに寄りかかった生きた過去だ。」
「なのに、その腐敗した過去を、なぜ、今の芸人は破壊できないんだ?」
悠人は、再び画像を突きつけた。その目つきは、一瞬の狂気と、それを制御する知性との境界で揺れている。彼の内なる声は、もはや社会の批判を超え、文明の終焉を望んでいた。
「ああ、そうだ。私の中に眠る人類史上最悪なサイコパスが目覚めつつあるな……どうしよう?この国を滅ぼしっちゃおうかww」
悠人は、そう言って冗談めかした破壊衝動を口にした。その声には、一瞬、底知れぬ虚無が混ざっていたが、すぐに彼は鼻で笑い、スマホをポケットにしまった。
「……彼にそんな力などあるはずがありません。」彼は冷静に戻り、慎吾の方を向いた。
「でも、慎吾さん。あなたの言う通り、金の力でシステムは買えない。強い力で国は滅ぼせない。」
悠人は、屋上の手すりにもたれかかった。その顔には、先ほどまでの熱狂とは違う、冷徹な覚悟が浮かんでいた。
「だから、私はコードを書きます。あなたの**『ペコペコ』の裏側にある葛藤と、偽りの安定のシステムを、一文字ずつ冷徹に描写する。この言葉の記録こそが、あなた方が『臆病な生存戦略』**で塗り固めたこの虚構の国を、内側からゆっくりと崩壊させる、最も非効率で、最も確実な破壊行為ではないでしょうか?」
悠人の瞳に映る夜景の光は、もはや「古いOS」ではなく、**「自分が記録すべき物語の素材」**へと変わっていた。
慎吾は、黙って悠人を見つめたまま、再びタバコに火をつけた。彼の周りに立ち上る煙は、**『五十の灯り』**を守るために彼が払い続けている、魂の代償のように見えた。
夜風が、二人の間に流れる空気を、再び冷たくした。そして、静かに、一日の終わりを告げていた。
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