思考の余白と、夜の対話

黒瀬智哉(くろせともや)

夜の帳と、珈琲の余韻

 夜の帳が降りたカフェは、路上の喧騒から切り離された、別世界のように静かだった。テーブルの上の小さなランプだけが柔らかな光を落とし、冷え切ったマグカップに残る珈琲の表面を微かに照らしている。


 悠真は、そのカップの縁を人差し指でゆっくりと撫でながら、窓の外の闇を見つめていた。向かいに座る詩織は、その仕草から彼が深く思考していることを察し、何も言わず、ただ静かに彼の横顔に視線を注いでいる。


「なあ、詩織」

 悠真が低い声で切り出した。

「『生きる』って、何なのだろうか。」


 その問いは、湿った夜気に溶け込むようで、少しばかり重い。詩織は一瞬目を閉じ、それから静かに微笑んだ。


「また、随分と根源的なテーマね。哲学者の顔になってるわよ、悠真」

「そうか? でも、真剣に考えてしまうんだ。生命活動を維持していること、それ自体は、木々が光に向かって根を張るのと同じ、ただの機能の継続だ。虫が本能という名の厳密な歯車で駆動するのと変わらない」


 悠真は言葉を区切り、詩織の顔を見た。詩織は彼の言葉を理解しようと、ほんの少し首を傾げる。


「うん。でも、私たち人間は違うの?」

「その違いを探しているんだ。ただ呼吸をし、心臓が鼓動しているだけの状態を、本当に『人間らしく生きている』と言い切ってしまって良いのかどうか、俺には引っかかる」


 悠真は、自身の胸郭に手を当てた。


「この内面の軋みは何だろう。胸の奥に灯る、満たされない、焦燥に似た違和感。それはまるで、手を失った時計が、歯車だけを虚しく回し続けているようなものだ。機能は動いていても、時を刻むという意味を放棄した、ただの金属の塊に見えるんだ」



 彼はデスクの端に置いてある、小さなAIスピーカーに目をやった。ランプが微かに青く光っている。



「例えば、あのAI。問いかければ応える。思考を巡らせ、人間と酷似した会話さえ成立させる。彼らに人間の身体を与えれば、見た目では区別がつかなくなるだろう」


 詩織は卓上の水差しに手を伸ばし、悠真の空になったカップに水を注いだ。カラン、と氷が触れ合う音が、思考の合間に涼やかな音色を響かせる。


「でも、何か決定的に欠けているのよね」と、詩織が相槌を打った。「魂の重さ、というか。雨粒がガラスを叩く音を、データとして認識しても、『淋しい』とは感じないでしょう?」


「その通りだ。彼らの行動は演算で、私たち人間の行動は葛藤なんだ。だからこそ、俺は思う。人間にとって『生きている』とは、単なるシステムの起動ではない。それは、人類に課せられた、逃れることのできない高次の活動を能動的に行うことだ」



 悠真は背筋を伸ばし、前のめりになった。その目には、夜の闇とは違う、強い意志の光が宿っている。詩織も椅子を少し引き寄せ、視線を彼に集中させた。



「その『人間らしさ』とは、荒野に火を灯し、その炎を皆で共有する行為に似ている。三つの核心的な能力で定義できると思う」


「聞かせて」詩織は静かに促した。


「一つは、言語による抽象化能力だ。私たちは目の前の現実だけでなく、『愛』『正義』『未来』といった、手で触れることのできない概念を言葉にし、他者と分かち合い、共感と連帯を生み出す。それは、目に見えない次元に都市を築き上げるような、人類だけの特権的な作業だ」


 詩織はうん、とうなずいた。


「二つ目は、死の意識と時間の概念だ。私たちは、この鼓動がいつか停止し、この身体が崩壊することを知っている。有限性という名の冷たい水の中に、敢えて未来への錨を下ろし、『いつか終わる』という絶望的な事実があるからこそ、今日の行動に価値を与え、計画し、立ち向かう。この時間の重さを知る者だけが、切実に生きることができる」


 悠真は水を一口飲み、最後に、最も熱を帯びた言葉を口にした。


「そして三つ目、最も重要なのは、意味の創造だ。世界には、初めから『生きる意味』など用意されていない。人生は空白のキャンバスであり、私たちは苦悩し、もがき、絶望しながらも、自らの手で筆を取り、この不透明な世界に意味を付与しようとする」


「この探求し、創造し、そしてその創造物を通じて他者と繋がろうとする内的な闘いこそが、『人間らしく生きる』ことの核心であり、我々がただの動物やAIの鏡像ではない、唯一無二の存在である証なのだ」



 悠真が話し終えた後、ふと何かに気づいたように、テーブルを指先で軽く叩いた。彼の瞳が、ある種の興奮で輝き始める。



「待てよ、詩織。だとしたら、俺たちが普通にプレイして楽しんでいる、あのゲームもそうだ。『ドラゴンクエストX』とか、ああいうMMORPGだ」


 詩織は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに合点がいったように微笑んだ。


「ああ、そうね。アストルティアでの冒険のことね」

「そうだ。モニター越しには鳥山明先生がデザインしたアバターのキャラクターたちが動いているが、その向こうには人間がいる。町中にいるNPCたちとは違う」


 悠真はさらに言葉を継ぐ。


「あれは、『人間らしく生きる』の凝縮された形だ。アバターという『抽象化された概念』を纏い、言葉を交わし、目的(強いボスを倒す、目標を達成する)という意味を創造し、見知らぬ他者と連帯する。現実の自分を一旦脇に置いて、別の世界で創造的に行動することで、日常の焦燥や違和感を昇華させている」

「そうね。現実世界での『内面の軋み』を、アストルティアで仲間と協力し、成功させる『小さな意味の創造』で埋めているのかもしれない。私たちは、どこまで行っても繋がろうとする存在なのね」


 詩織は両手をテーブルの上で組み、深く息を吐いた。彼女の瞳は、ランプの光を反射してキラキラと輝いている。


「ありがとう、悠真。あなたの言う通りね」

 彼女はゆっくりと首を横に振った。

「私たちは、ただの機能ではない。苦悩することで、意味を創り出し、それを抽象的な世界でさえ共有し、繋がろうとする存在なのね」



 マグカップは空になり、外の闇も僅かに明るさを増している――。二人の間に流れる空気は、問いかけを始める前よりもずっと澄んで、心地よいものに変わっていた。



 その時、悠真はふと、壁の時計に目をやった。午前一時を回っている。途端に彼の顔色が変わった。


「やばい、詩織。大変だ!」

「どうしたの? そんなに切羽詰まった顔をして」


 悠真は慌てて立ち上がり、コートを掴んだ。


「『人間らしく生きる』という、この素晴らしい結論が出たのに、その意味の創造を怠るところだった! アストルティアの週替わり討伐、まだやってない! このままだと、俺のパラディンが今週分の経験値を放棄することになる!」


 詩織は呆れたように笑いながら、自分のバッグを肩にかけた。


「つまり、哲学的な考察の終着点は、**『今日もドラクエをやる』**ってことなのね。それが今のあなたにとって、一番切実で、最も身近な『生きる意味』ってわけだ」


「ああ!」悠真は力強く頷き、店のドアへ向かう。

「人間らしく生きるためには、まず、レベルを上げなければならないんだ!」


 カフェの扉が開き、夜の冷たい空気が流れ込んだ。詩織は、その背中を少し微笑ましく見つめながら、店の外へ続いていった。

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