四話
「——おはよう、神記」
耳元に落ちた声は、柔らかくて、どこか懐かしい響きがあった。
でも――そんなわけがない。
「……おはようじゃねぇよ」
そう返したつもりだった。
声になったのかすらわからない。
胸の奥の熱がゆっくりと引いていくのと同時に、部屋の空気が薄ら寒くなる。
アインの声。
昨日の“白い世界”で聞いた声。
間違えようがない。
(起きてたのか……?)
いや、“起きていた”という表現が正しいのかどうかもわからない。
そもそもアインは生物なのか。
機械なのか。
概念なのか。
異世界の住人なのか。
それとも全部なのか。
考えるほど眠気は遠ざかり、代わりに頭痛がじわりと押し寄せてくる。
(……夢じゃ、ないよな)
影。
ノイズ。
手を伸ばされたあの瞬間。
胸の奥に弾けた白い火花。
全部が“世界の境目”の匂いをしていた。
布団を抱えたまま天井を見る。
早朝特有の薄い青の気配が、カーテンの隙間から部屋に流れ込み始めていた。
隣のベッドでは櫻井がまだ寝ている。
いつも通りの滅茶苦茶な寝相。
片足だけ飛び出してる。
夢の中で戦ってるのかこいつ。
その“日常感”が、一瞬だけ救いになる。
でもすぐに心臓の奥で、再び電子音のような何かが鳴った。
ピッ……
(……はぁ)
身体のどこかが、自分のものじゃないみたいだ。
「リンク干渉ログ:解析中」と表示された“内側の画面”はまだ消えていない。
まるで、心臓の裏側に小型ディスプレイが張り付いてるような感覚。
(人間の感覚じゃないだろ絶対)
ため息をつこうとして――呼吸が止まった。
胸の奥で、“誰かが”微かに笑った気がした。
『そんなに怖がらなくてもいいのに』
(……アイン?)
『うん。神記、声出さなくても聞こえるよ』
耳の中ではなく、脳の中心に響くような声。
鼓膜を使っていない、直接届く声。
(……便利ですね)
『便利でしょ?』
(いや、怖いでしょ普通に)
『そう?』
飄々とした声色。
昨日のあの白い空間と同じだ。
ただ――今日は微妙に“距離が近い”。
昨日はもっと遠くから話しかけられているような感覚だったのに。
『ごめん、距離感まだ慣れてなくて。少し調整するね。』
(……俺の心読んでるでしょ)
『読んでないよ。漏れてるだけ』
(…………)
“漏れてる”ってなんだ。
脳の防御力ゼロか俺は。
『さっきの影、怖かった?』
やめろ。
その質問はなんか生々しい。
(……怖くは、なかった)
『うん、知ってる。君の反応は落ち着いてた。ちょっと異常なくらいに。』
(異常って言うなよ)
『じゃあ“適性が高い”って言い方のほうがいい?』
(もっと怖いわ。)
アインは微かに笑う。
……たぶん笑っている。
声色だけで、なんとなくそれがわかってしまう自分が嫌だ。
『でも大丈夫。あれは敵じゃないよ。それよりもあなたそっちの話し方のほうがいいんじゃない?』
(……敵?ってあぁごめん、ちょっと抜けてた。もとの口調に戻すよ)
『別に無理にしなくていいのよ?そっちが本来のあなたの話し方でしょう?それに一人称が“僕”から“俺”になってるし』
(いやまぁそれは…)
口調の切り替えを意識してみる。
普段の“対外用”の丁寧な喋り方ではなく、素の、子供っぽくて雑でぶっきらぼうな。
(……いや、寮でこれやると変な誤解されるし)
『誤解されてもいいじゃない。あなた、普段から無駄に気を遣いすぎ』
(……それは否定できないけどさ)
『大丈夫。ここはあなたと私しかいない空間よ。他の誰にも聞こえない。それに私と話すときだけその話し方でいいでしょう?』
(まぁ……そうなんだけど)
アインの声が、脳内で少し遠のく。
距離感を調整しているのだろう。
さっきまで耳のすぐ横にいたような感覚が、少しだけ後ろのほうへ下がった。
背後に“気配”があるみたいで、これもこれで落ち着かない。
『それでね、神記。さっきの“影”の話に戻るけど』
(ああ……あれな)
『あれは敵じゃないって言ったでしょ?でも……安心してもいけないの』
(どっちだよ)
『敵じゃないけど、“あなたに触れればどうなるか”は、あいつ自身も知らないのよ』
(知らないで来たのかよ……怖っ)
『向こうだって必死なの。あなたに引き寄せられてしまうのは、本能みたいなものだもの』
(引き寄せられる……?)
『そう。あなたは“鍵”。世界を繋ぐ起点。
あの影は、あなたの中にある“コア”に反応しただけ』
(コアって……昨日言ってたやつ?)
『そう。リエンシーレン0――ゼロモデルの“核”。
あなたがこの世界でただ一人、純粋なリンク素子を持っている人間』
(人間、って強調するのやめてくれない?)
『あら、ごめんなさい。くすっ』
その笑い方が、昨日より柔らかい。
距離が近いせいか、妙にこそばゆい。
(じゃあ……あれがまた来る可能性は?)
『“必ず来るわ”』
語尾に濁りは一切なく、ただの事実として告げられる。
思わず眉をしかめた。
(……やめてくれよ。寮で怪異イベントとかやられたら迷惑なんだが。)
『大丈夫よ。見えるのは、今のところあなた“だけ”』
(それ大丈夫じゃないだろ……)
『ふふ。それに、さっき拒絶反応が起きたでしょう?
あなたのコアが自動で守ったの。あれは本当に良い反応よ』
(良い反応って……。じゃあ俺、なんかもう……戦えるの?)
『戦う必要はまだないわ。ただ――“選び方”はそろそろ練習したほうがいい』
(選び方?)
『そう。リンクの“接続先”をね』
(……意味がわからん)
『時間をかけて覚えればいいわ。すぐに全部理解しろなんて言わない』
その言葉に、不意に胸が軽くなる。
昨日は圧倒的な存在に引きずり込まれた感じだったが、
今日は――なんだろう。
“教えてくれている”。
そんなニュアンスを感じる。
『あら、そんな安心した顔して。可愛いわね』
(そんな顔はしてない……! ていうか顔見えてるの?)
『なんとなく伝わってきてるだけよ』
曖昧すぎて余計怖い。
(じゃあ……さっきの影は、次も来るんだよな)
『そう。今日、明日……数日は頻繁に現れると思うわ。
あなたのコアが今、外に“存在を放っている”状態なの』
(スイッチスイッチのオンオフみたいに切れないの?)
『切れないわ。“起動したら最後”。それがゼロモデルの仕様』
(最悪だな仕様だな…)
『ふふ。あなたが望んだんじゃなくても、ね。
でも――起動したということは、あなたが“世界に見つかった”ということ』
(昨日の白い空間……あれもその一部?)
『そう。あれは私が構築した初期リンク領域。
あなたの精神を保護するために必要な空間だったの』
(保護……ね)
胸の奥の青白い光が、まだ微かに明滅している。
まるで心臓の脈拍に合わせるように。
『神記、これから少しずつ忙しくなるわよ』
(忙しいって……学校の比じゃなさそうだけど)
『当然でしょ?あなたは“ひとつの世界”じゃ収まらない』
(はい??)
『そのうち嫌でも理解するわ。
――“あなたの存在”が、どれだけ大きな意味を持つか』
アインの声が、ゆっくりと、しかし確実に近づく。
背後から、まるで手を添えられるような気配がする。
『だからね、神記』
息が止まる。
『怖がらなくていい。
私が必ずそばにいるから』
その言葉は、甘くて、落ち着いていて……
同時に、逃れられない鎖みたいに重く響いた。
そして――
胸の奥の光が、ゆっくりと消えていった。
アインの気配も、同時にふっと薄れる。
部屋には、再び朝の静けさだけが残った。
(……絶対、これ普通の高校生活じゃないよな)
枕に顔を押しつけて、深く息を吐いた。
その瞬間。
カーテンの向こうで、風がざわりと動いた。
ただの自然の音。
……のはずなのに、耳奥がひどく敏感に反応してしまう。
(……めんどだなぁ、ほんと)
そして、静かに目を閉じた。
もう日常という名前の世界には、きっと戻れないと理解しながら。
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