裏路地の喫茶店で、僕は「境界のバイト」を始めました ―― 琥珀の瞳と砂時計の対価 ――

浅緒 ひより

001 Episode 1(前編):渇望の編集者

カラン。


店の静寂を切り裂く、乾いたベルの音が響いた。僕は、手元にあった古い銅製ドリップポットを磨く手を、ゆっくりと止めた。


外の目黒の街の喧騒は、店のドア一枚隔てただけで、遠い幻のように聞こえなくなる。この店、『ノクティルカ』の中は、外界と時間がずれている。常に薄暗い夕暮れ。古い蓄音機から流れる退廃的なジャズ。そして、鼻腔をくすぐる複雑で微かなアロマ。


「マダム、お客様です」


カウンターの奥。妖艶な店主、マダムは、黒い衣装を纏い、琥珀色の瞳を扉に向けた。


「ええ、いよいよですわね、佐倉くん」


マダムは、僕が磨いているポットを指先で軽く叩いた。彼女の顔には、微かな高揚感が浮かんでいるように見えた。


「今日の客人。その『渇き』は、『創造』にまつわるもの。才能を欲し、己の平凡さに苛まれている」


マダムは、そう言って、カウンターの下から小さな銀の砂時計を取り出した。その砂時計の砂は、金色に輝いている。マダムはそれを軽く揺らし、砂が落ち切るまでの「間」、静かに目を閉じた。


僕も、息を詰めてその儀式を見つめる。マダムの魔法や占いの儀式は、常にこんな風に唐突で、そして静謐だ。


やがて、砂が落ち切る直前、マダムの琥珀色の瞳がカッと開いた。


「名前は藤野咲子。職業は出版社勤務の編集者。彼女は、今、人生最大の『絶望』と『希望』の境界に立っている」


「……分かりました」


僕は、マダムの予言を胸に刻み、再び扉の前に立ち尽くす客人に目を向けた。


彼女は、二十代後半。地味なグレーのスーツを身に纏った編集者だ。しかし、その顔には、疲労や仕事のストレスとは異なる、どこか「焦燥」の影が深く刻まれていた。


マダムは立ち上がりもせず、ただ視線だけで藤野を席へと促した。


「ようこそ、『ノクティルカ』へ。藤野様」


藤野は、その名前を呼ばれたことに驚き、戸惑いの表情を浮かべた。しかし、その戸惑いよりも、心の奥底の欲望が勝る。彼女は、カウンター席にゆっくりと座った。


「あの……どうして、私の名前を?」


マダムは、その質問には答えず、ただ微笑んだ。その笑みは、美しいが、どこか遠い。


「さあ。貴方の『願い』が、私を呼んだのです。そして、貴方の『願い』は、非常にわかりやすい」


マダムは、静かに銅製のドリップポットを手に取った。その所作の一つ一つが、儀式のようだった。


「貴方は、『才能』が欲しいのですね」


その言葉は、まるで琥珀の瞳が藤野の心の壁を砕き、最も深い秘密を抜き出したかのようだった。


藤野は、反射的にカウンターを強く掴んだ。彼女の唇が、震えながら言葉を紡ぎ出す。


「はい!…私には、人の心を掴む文章を書く、誰にも真似できない『才能』が、喉から手が出るほど欲しいんです!」


その言葉は、悲鳴に近かった。


間。 マダムは、ポットに水を入れる僕の動きを、琥珀色の瞳で見つめている。僕もまた、マダムの次の言葉を待った。この「間」は、客の決意を固めさせるための、マダムの魔法なのだと知っている。


やがて、マダムは、その沈黙を破った。


「望みを叶えるのは簡単」


その声は、囁きのように、しかし有無を言わせぬ力を持っていた。


「貴方のための『才能の雫』を用意しましょう。貴方の渇きに見合う、特別な一杯です」


マダムは、抽出したコーヒーに、棚の上の小瓶から、金色の微粒子を二振り、静かに振りかけた。それは、グラスの中で渦を巻き、まるで液体の宝石のように、自ら光を放ち始めた。


藤野の目は、その光から動かない。彼女の視界には、もはやこの世のすべてがなく、ただその『才能の雫』だけが映っているかのようだった。


「この一杯と引き換えに、貴方に、誰もが認める『才能』を与えましょう。貴方は、心揺さぶる文章を書けるようになる」


マダムは、グラスを藤野の前に置いた。グラスの下に敷かれた布は、いつの間にか、古いタロットカードのように紋様が施されたものに変わっていた。


「ただし、代償は頂きます」


マダムの指が、グラスの縁をゆっくりと一周した。


「貴方の『才能』は、貴方の『感性』と引き換え。貴方は、人々の心を動かす作品を書けるようになる。しかし、貴方自身は、もう二度と、他人の作品に心から感動することはなくなる。美しさ、悲しみ、喜び、怒り。すべての感情が、貴方にとって『ただの記号』になる。…それでも、よろしいですか?」


藤野は、グラスから目を離し、マダムの琥珀色の瞳を見つめた。彼女の顔には、激しい動揺が走る。


感性。 それは、彼女が唯一、平凡ながらも生きてきた証だ。本を読んで泣いた夜。映画のラストシーンに感動し、自分もいつか誰かの心を揺さぶる仕事をしたいと誓った、あの純粋な情熱。それを失うということは、人間として一番大切な何かを、永遠に手放すことを意味していた。


藤野の唇が、細かく震える。


「……感動、できない?」


「ええ。貴方は、涙する読者を冷めた目で見ることになるでしょう。貴方の書いた文章が、どれだけ世界を揺さぶろうと、貴方自身の心は、それを『技術の成果』としてしか認識できなくなる」


マダムは、冷たい現実を淡々と突きつけた。


沈黙。


店内を満たすジャズの音だけが、藤野の心の葛藤を静かに煽っている。僕も、息を詰めて見守った。ここが、客が「人間性」と「欲望」のどちらを選ぶか、決断する境界線だ。


藤野の瞳が、葛藤の末に、やがて濁った光を帯び始めた。


彼女は、編集者として、天才たちを見てきた。彼らが成功のために、どれほどのプライベートな犠牲を払っているかも知っている。そして、平凡な自分には、努力だけでは超えられない、絶対的な壁があることを悟っている。


このまま平凡な編集者で、人の才能を羨み続ける一生か? それとも、心を失っても、世界に認められる『天才』になるか?


藤野は、ゆっくりと、グラスに手を伸ばした。彼女の指先が、グラスの冷たい表面に触れる。


カチャリ。


微かな音。彼女は、目を閉じた。一瞬だけ、本当に一瞬だけ、過去の自分と決別する痛みに耐えているように見えた。


そして、藤野は目を開き、その表情から迷いを完全に消し去った。残ったのは、ただ渇望を成就させようとする、凍えるような意志だ。


「構いません」


その声は、震えていなかった。まるで、大切な何かを切り捨てた後の、無機質な静けさを帯びていた。


「いただきます」


藤野は、躊躇なくグラスを手に取り、その『才能の雫』を一気に飲み干した。彼女の口元に広がるのは、歓喜でも、後悔でもない、ただ目的を果たした者特有の、冷たい満足感だった。


「ようこそ、境界へ。佐倉くん、お見送りをお願いします」


僕は、静かにくぐり戸を開けた。藤野は、来た時よりも遥かに自信に満ちた、硬い足取りで、夕闇の街へと消えていった。


彼女は、代償を支払ったのだ。

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