観測者、そして電子の魔術

高橋玲奈が放った「絶対的防御結界(クレーム対応スキル)」の衝撃は、健司の中に深く刻み込まれた。


あれ以来、彼は玲奈の一挙手一投足を観察するようになった。彼女は、現代社会という複雑怪奇なダンジョンを攻略するための、生きた手引書そのものだった。


「赤城さん、ゴミ袋の口は、お客様に見えないように内側に折り込んでください。見栄えも業務の一環です」


「赤城さん、揚げ物の補充は5分前行動が基本です。機会損失を防ぎます」


「赤城さん、息、止まってます」


玲奈からの指摘は常に的確で、容赦がない。だが、その言葉の根底には、店という「陣地」を守るための明確なロジックがあった。


健司は、彼女から「ルール」と「段取り」という、異世界では軽視していた概念の重要性を学び始めていた。


少しずつではあるが、健司は「コンビニ店員」という役割に身体を馴染ませていく。そんなある日、バックヤードで店長に呼び止められた。


「赤城くん、そろそろ給料日だけどさ、振込先の口座とかどうなってる? あと、緊急連絡先も教えてもらわないと」


健司は言葉に詰まった。失踪宣告を受けた死人に、銀行口座が開設できるはずもない。連絡先と言われても、家には電話すらない。


その日の夜、健司はリサポから与えられたプリペイド携帯で、安田に連絡を取った。事情を話すと、安田は「想定内の問題です」とだけ答え、翌日、古びたスマートフォンを持って健司のアパートを訪れた。


「これは我々が法人契約しているものです。最低限の通話とメッセージ機能しかありませんが、当面の連絡用としてお使いください」


手渡されたのは、数世代前のモデルであろう、傷のついたスマートフォンだった。健司が戸惑いながら受け取ると、安田は釘を刺すように言った。


「いいですか、赤城さん。これで余計なサイトを見たり、SNSに登録したりすることは絶対に避けてください。あなたはまだ、社会的に“存在しない人間”なのです。デジタル社会に足跡を残すのは、あまりにも危険すぎる」


その忠告は、健司の胸に重くのしかかった。この小さな板は、便利な道具であると同時に、彼の存在を暴きかねない危険な魔道具でもあるのだ。


翌日の休憩時間、健司は玲奈に頭を下げ、スマホの基本的な操作方法を教えてもらった。


「……これが、LINEですか」


「まあ、そんな感じのアプリです。連絡先、店長と安田さんしか入ってないんですね。友達、いないんですか?」


「友……」


異世界で共に戦った仲間たちの顔が脳裏をよぎり、健司は静かに首を振った。玲奈はそれ以上何も聞かず、淡々と操作方法の説明を続けた。


その夜、バイトを終えて薄暗いアパートの一室に戻った健司は、布団の上でぼんやりとスマホの画面を眺め、よくわからない画面を押していた。


安田、店長、そして今日追加された玲奈の連絡先。たった三人だけのリストが、今の彼の世界の全てだった。


その時だった。ブブッ、と短い振動と共に、画面上部に通知が表示された。メッセージアプリのアイコン。


しかし、送り主は連絡先に登録されていない、見知らぬアカウントだった。アイコンには、不気味な幾何学模様が描かれている。


健司は、胸騒ぎを覚えながらその通知をタップした。


[UNKNOWN]見つけました。観測座標、日本・新宿区。対象名“赤城健司”。


心臓が跳ねた。誰だ? なぜ俺の名前を?


健司が返信する間もなく、次のメッセージが滑り込んできた。


[UNKNOWN]時空の揺らぎから、あなたの帰還は予測されていました。


時空の揺らぎ。その言葉は、健司がアストライアから強制的に送還された時の、あの閃光と浮遊感を思い出させた。こいつは、俺がどこから来たのかを知っている。


そして、決定的な一文が、健司の思考を完全に凍りつかせた。


[UNKNOWN]“剣聖”の帰還を祝福します。失われたあなたの神話、我々と共に再び紡ぎませんか?――"預言者"より


「剣聖」。それは、異世界で彼が呼ばれていた称号。リサポですら知らない、彼だけの過去。


安田の警告が脳内で警鐘を鳴らす。デジタル社会に足跡は残していない。それなのに、この「預言者」と名乗る者は、あまりにも容易く、壁の向こう側から健司の核心に触れてきた。


敵、なのか?健司の心は、異世界で培われた警戒心を最大限に引き上げた。正体不明の相手からの接触は、常に最悪を想定すべきというのが鉄則だ。


だが――もし、味方だとしたら?


孤独なアパートの一室で、その可能性が毒のように甘く心をよぎる。リサポはあくまで監視者であり、店長や玲奈は事情を知らない。この世界で、彼の過去を、彼の本当の姿を知る者は誰もいない。この「預言者」は、初めて現れた「理解者」なのかもしれない。


健司は、手の中にあるスマートフォンが、ただの連絡ツールではない何か――未知の世界へと繋がる、危険な扉に変わってしまったことを悟った。その扉を開けるべきか、固く閉ざすべきか。


画面の光が、元・英雄の顔を青白く照らす。


扉は開かれた。


この「預言者」は、この孤独な世界で唯一の理解者なのか。それとも彼の日常を破壊する、新たな魔王なのか。

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