三時間の隣人
旭
第1章 のぞみ12号、午後の窓際➖由香➖
指定席の電光掲示が「のぞみ12号・新大阪行き」と光る。11号車、D席。
東京駅の喧騒の中、由香はスーツケースを引きながら座席番号を探していた。やっと見つけた自分の席の隣、E席にはすでにスーツ姿の男性が座っていた。
「すみません、そこ……」
「あ、どうぞ」
彼はすぐに立ち上がり、柔らかく笑って通路に身を寄せた。
その笑顔が、少し疲れていて、少しだけ人懐っこかった。
車窓の外に東京のビル群が後ろへ流れていく。列車が動き出してすぐ、由香はペットボトルのお茶を開けた。プシュ、と音がした瞬間——
「うわ、危なっ……!」
「すみません!」
ふたりの間に一瞬だけ飛んだ雫を、彼はハンカチで拭いて笑った。
「全然、大丈夫です。緊張してます?」
「いえ、ちょっと寝不足で……仕事で名古屋まで行くんです」
「僕も出張です。大阪まで。関西って、空気が違う気がしますよね」
「そうですね。言葉も、ちょっと柔らかくて」
ふたりは、それから少しずつ話し始めた。
どこに住んでいるのか、どんな仕事をしているのか、最近観た映画の話。
車内アナウンスが静かに流れるころには、初対面のぎこちなさはすっかり消えていた。
「仕事、好きですか?」
由香がふと聞くと、彼は少し間をおいて答えた。
「うーん……好きというより、離れられないって感じですかね。向いてないと思っても、何かしら理由をつけて続けちゃう」
「……わかります。私も、辞めよう辞めようと思って、結局ずっと同じ会社です」
静かに笑い合う。
窓の外に、浜名湖の光が一瞬きらめいた。
「もし次の駅で降りられたら、どこ行きたいです?」
「うーん……京都かな。紅葉見に行きたいです。あなたは?」
「僕は、広島。高校の修学旅行で行って、それきりなんです」
会話はゆるやかに流れ、気づけば車内販売が通り過ぎていた。
彼がコーヒーを買い、由香がチョコを分ける。
その時間が、少しだけ特別に感じられた。
——新大阪に着くころ、ドアの上に「終点・新大阪」の文字が灯る。
「じゃあ、ここでお別れですね」
「はい……」
短い沈黙。
けれど、何かを言い出すにはもう時間が足りなかった。
「今日は、楽しかったです」
「私も。なんか……不思議ですね。隣の席で話しただけなのに」
改札口で別れたあと、由香はスマートフォンの画面を見つめた。
連絡先を聞こうと思って言えなかった。
彼の声が、まだ耳の奥に残っている。
その夜、名古屋のホテルのベッドで、由香はぼんやりと天井を見上げながら思った。
たった三時間の出会いが、こんなに心に残るなんて。
——のぞみ12号、午後の窓際。
あの席に、もう一度座ることはきっとない。
でも、あの会話の余韻は、いつかまたどこかで、ふとした瞬間に思い出すのだろう。
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