第6話

 昼下がりのギルド酒場は、いつもより騒がしかった。

 昼間からジョッキを傾ける冒険者たちの笑い声、テーブルを叩く音、肉を焼く香ばしい匂い。

 サクトはその喧騒の真ん中で、困ったように笑っていた。


「おーい! 『拾い屋』! こっち来い!」


 陽気な男が手を振って俺を呼ぶ。何度か俺を使ってくれたパーティーのリーダーだ。

 頭を下げつつ、首を振る。


「いや、俺は仕事の報告がまだ……」


「堅ぇこと言うな! お前のおかげで、みんな変なわだかまりが解けてよぉ! 最近ギルドの雰囲気がいいもんだ! おら、こっちにこい! 酒奢ってやる!」


 ジョッキを押しつけられ、泡がこぼれる。

 しかたがない。ここで引いたら男が廃る。……酒なんて、元の世界でもあまり飲まなかったので、久しぶりだ。ビールは味が嫌いなんだけどな……!


 意を決して、なるべく舌の上を通過させずに、喉の奥まで流し込む!

 すると炭酸混じりのアルコールに喉を焼かれて、思わずむせた。

 それを見た周りがドッと笑う。


「わはは! 酒の飲み方知らねぇのか!」


「イッキなんて見様見真似でできるもんじゃないよぉ? 無理しちゃってぇ」


「まっ! 何はともあれお疲れさーん!」


 もみくちゃにされる。いつの間にか俺は笑顔の輪の中心にいて、酒臭い冒険者達に肩を組まれて……俺も頬が痛くなるほど、笑っていた。

 こんな、戦えもしない俺をみんなが認めてくれている。なんて心地いいんだ。

 何杯目かのジョッキを空けたあたりで、ふと誰かが言った。


「そういやサクト、お前いつもあの未亡人んとこの宿屋に泊まってんだろ?」


 酔いのせいか、茶化すように「おお!?」と周りの声のトーンが一段上がった。

 皆の視線が俺に集まる。手にしたジョッキを一口飲み下し、質問者へと顔を向ける。


「……レゼットさんのことですか」


「そう! あの美人女将! ずいぶん仲が良さそうだけど、本当にただの客か? それともそういう・・・・関係だったり?」


 ああ、まあ……そういう話になるよな。そりゃあ。

 昼だけど、酒の席だもんな。

 酔っぱらいとは、下世話な話題が大好きなのだ。


「おいおい、バカが! 顔真っ赤にしてるぞ!」


「いやーでも、あの人独り身だしなあ。若い男が転がり込んだら、そりゃあねぇ?」


 止めに入る人も酔って笑って、全然説得力がない。

 もちろん俺達はそういう関係にない。ないが……否定の言葉を探したが、少し、口が動かなかった。


「……そういうのじゃ、ないですよ」


 なんとか絞り出すように答えた。

 あとはもう、素直な言葉が、口からこぼれる。


「恩人なんです。俺がこの街に来たとき、助けてくれた人で。それで未だに世話を焼いてくれるんです。俺も、そんな彼女に恩返しができたらと思ってるんです」


「へぇ、真面目だなあ。けどさ、あんな綺麗な人に世話されて、なにも感じねえってのもおかしいぜ? なあ? お前らもそう思うよなあ!?」


 笑い声。「違いねえ!」「俺なら一回だけでもつって拝み倒すぜ!」だなんて、酔った勢いで何言ってんだ。

 俺はもう、恩義しか感じない。それ以外を求めるなんて、分不相応だ。

 それ以外の感情なんて――感じていない、はずだ。

 だってそれは、彼女に、失礼だから……。




――




 すっかり酔っぱらった体を引きずりながら、夕方、宿のドアを開ける。

 食堂から湯気が立ちのぼり、スープの匂いが漂ってくる。

 カウンターの向こうで、レゼットさんが鍋をかき混ぜていた。


「おかえり、サクト。って……あー。昼間から飲んでたでしょ! もう!」


「すみません。誘われて断れなくて」


「まったく。顔、真っ赤よ。ほら、座って。お水、飲んで」


 グラスに注がれた水を、一気に飲み下す。澄んだ冷たさが喉を通り抜ける。

 酔った頭に少しだけ、自我を引き戻してくれる。

 すると、自分がいかにダメ人間加減に気付いてしまうのだった……。

 恐る恐る、口を開く。


「……レゼットさん、ごめんなさい。宿代、まだ返し終えてないのに、仕事もせず飲んだくれて……」


 俺の『拾い屋』としての仕事は大繁盛だ。

 しかしながら、所詮は雑用。その報酬は微々たるもの。

 モンスターを自分で倒せないのだから、低収入でも、仕事があるだけありがたい。りがたいが……毎日の宿代を支払うだけで精いっぱい。とても稼ぎを貯蓄や返済に回す余裕なんてなかった。


 彼女は少し目を丸くしたあと、やわらかく笑った。


「何言ってんの。たまには息抜きも必要よ。むしろ、これまで働き過ぎだったから、心配してたのよ?」


「……でも」


「でも、なに?」


 言葉が詰まる。

 視線が絡む。

 いつもより近くに感じたその瞳が、酔いの残り火を刺激した。


 彼女が近づくたび、甘い香りが漂ってくる。

 俺の心臓が、鼓動を早めた。

 酒場でのやり取りが、頭の中で反芻される。


 ――あんな綺麗な人に、何も感じないのはおかしい。


 俺もそう思うよ。ああ、白状するよ。

 俺はこの人といると、ドキドキしてしまうんだ。たまらなく、抱きしめたくなる衝動に駆られる時もある。俺はこれまで、それを必死に押さえつけていたんだ。


「ねえ、サクト」


 レゼットさんは、俺の顔を覗き込むようにして、囁く。

 俺の気なんて知らないで、顔を近づけてくる。


「……寂しい夜って、あるでしょう?」


「……え?」


 レゼットさんの言葉に、思考が一瞬、停止した。

 何も言い返せないでいると、彼女は言葉を続ける。俺の意見なんて、まるで知っているかのように。


「私ね、たまに考えるの」


 レゼットさんは目を伏せ、髪を耳にかけた。

 とても綺麗だ……。


「このままずっと一人で帳簿をつけて、毎日お掃除して、お客さんが来たら笑顔を作って……そんな毎日を、あと何年続けるのかしらって」


 その横顔が、どうしようもなく切なく見えた。

 俺はまだ、何も言えないでいる。


 やがて、レゼットさんは再び俺の目を見つめた。

 その瞳には、どこか試すような光が宿っていた。


「……もし、これから、寂しい夜を一緒に過ごしてくれるなら」


 指先が俺の胸元をなぞる。

 触れられた肌が熱を持って、その熱はマグマのように噴き上がり、みるみる顔を燃え上がらせた。


「そうね。一週間……養ってあげるわよ?」


 息をのむ音が、自分のものだと気づくまで少しかかった。

 レゼットさんの瞳が、ランプの炎を映して、妖艶に揺れている。

 俺は、まるでパペット人形のように、誰かに操られているんじゃないかと錯覚するほどの素直さで、首を縦に振るのだった。


「……わ、わかりました」


 そう言った自分の声は、震えていた。

 レゼットさんはその言葉に、少しだけ目を見開き、次にやさしく微笑んだ。


「ふふ……素直でいい子ね、サクト」


 そのまま、彼女は灯を落とし、静かに部屋の奥へと歩き出す。

 俺はその背中を、ただ黙って追いかけた。

 初めてレゼットさんの部屋に入って、初めて、レゼットさんのベッドに横になった。

 初めて、彼女を抱きしめた。


 借金も、恩も、恋心も。

 全部ごちゃまぜになって、胸の奥でじんわりと痛んた。

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