27回目の偶然

@link2025-11-05

#1舞う蛇

ウィンストンは静かに寝息をたてているレイヴンを起こさないよう、そっとベッドから這い出た。


キッチンにいって冷蔵庫からイタリアンローストを取り出すと、ラジオをつけた。

落ち着いた男性アナウンサーの声が、ヨーロッパ戦線の最新ニュースを伝えてくれる。


――――アメリカおよび連合軍は北フランスで着実に前進し、激しい抵抗を受けながらも複数の要地を確保しました――――軍事当局によれば――――


豆をコーヒーミルにスプーン一杯分入れて、ベッドに目を向けた。


レイヴンが布団を胸に抱きよせるようにして、上体を起こしていた。


彼女は、ラジオの報道を一言一句聞き逃さないといった様子でじっと聞き入っている。


けれど時間の経過とともに、彼女の顔が曇っていくのがわかった。


しまいには眉間に皺を刻んで、頭痛に襲われたかのようにこめかみを抑えた。


「ラジオを消してくれる? ウィンストン。朝からヨーロッパ戦線の話なんか聞きたくない」


「どうして?」


無意識のうちから出た言葉だった。

ウィンストンは失言だったと直ぐに気付く。

レイヴンは、なんでそんなことも分からないの?

とでも言うような非難の目を向けていた。


「すまない」

 

 ウィンストンはそう言って、ラジオを切った。

窓からは白い陽光が降り注いでいる。

地面に落ちた光の先端は、ウィンストンの足元まで伸びていた。


 レイヴンは先ほどの姿勢のまま、放心しているかのように動かない。ウィンストンはふと思い出したようにハンドルから手を離した。


「レイヴン。コーヒーはどうだい。まだ半分も豆を挽けていないんだ。ついでに君の分も作ってやろう。ミルクと砂糖をたっぷりいれてね」

  

 ウィンストンは、なるたけ優しい声音でそう言った。

けれど、レイヴンは不思議な生き物でも見るような表情をして、彼女のコバルトブルーの瞳はウィンストンを拒絶していた。


「いらない」


 レイヴンは短くそう言うとウィンストンから顔を背け、窓に目をむけた。ウィンストンも「そうか」とだけ言って、再びハンドルを握り、回し始める。


 彼女がこうなってしまっては、ウィンストンにはどうすることも出来なかった。彼女の中から抑鬱気分の波が引いてくれるのを待つしかない。


 豆を削る音だけが無遠慮に響いて、二人の距離を埋めていた。挽きたてのコーヒーは、焦がした木のような苦い香りだった。ウィンストンはブラックコーヒーを啜りながら、彼女の様子をうかがった。


 レイヴンは相変わらず陽だまりの中でじっとしている。それはまるで何かを待っているようで、何かを無言で訴えているようだった。

 それが何を意味しているのか分からなくて、ウィンストンは酷く不安な気持ちになった。レイヴンに申し訳ないという気持ちさえ湧いた。


 彼女との間に妙な確執が生まれているらしい事は分かっていた。けれどその原因がわからない。それがウィンストン自身にあるのか、はたまた彼女のひどく内面的なものにあるのか。レイヴンは感情の起伏に乏しくて大人しい女性だが、その分とても繊細でもあった。



 秒針の動く音が明瞭に響いている。半分ほど降りたブラインドの下から、車の走行音や窓に吹き付ける風の音なんかが、遠い海鳴りのように聞こえた。


 ウィンストンは胸を大きく反らして、体を伸ばした。左手の窓は、街灯や信号機の白熱灯が混ざり合い、微かに反射して見えた。混ざり合った光の陽炎をしばらく眺めてから、デスクに積まれている書類の山に視線を移す。


 ふと、その山の下に見覚えのないものがはみ出しているのに気が付いた。白い封筒だ。差出人の名前は書かれていない。ウィンストンは不信に思いながら封筒を開け、中身を取り出した。小さな紙に一言のメモ。太軸の高価そうなペンに、細長いアルファベットと数字の羅列が書かれた紙。


 メモにはハッピーバースデイ、ウィンストンと、ぎこちない角ばった文字で書かれていた。まるで右利きの人間が左手で書いたような不自然な字だ。その字は絶望的に字が汚いとか、癖があるとかでなければ、筆跡を隠そうとしている字だった。

 その下には、蛇がとぐろを巻いてネズミを絞め殺そうとしている絵が描かれている。長い舌を伸ばす蛇は邪悪な笑みを浮かべ、こちらを睨んでいた。ネズミは天を仰ぐ様な格好で、顔は見えない。さらにその下に、“舞う蛇”と書かれている。この字も筆跡が誤魔化されている。


「舞う蛇」


 いったいどういう意味なのだろうか。字の配置的にこの絵のタイトルのように見えるが、蛇はとぐろを巻いており、舞ってはいない。

 “舞う”という言葉は物理的なものではなく、何か違った意味を孕んでいるのかもしれない。ウィンストンはこの絵のタイトルと思しき言葉に、妙な引っ掛かりを感じた。それが絵と言葉の不一致からくるものではないことは確かだった。

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