第9話 公開検証――“色がなくても終わる”の手順

木曜10:00、旧本社・本会議室。

床は薄いワックスの光、長机は一直線。名札の間隔まで揃い、空調は一定、プロジェクタの白が埃を静かに浮かせる。


相原・ことね・紗良・ゆいが前に立つ。監査が淡々とルールを読む。

声を荒らげない/手順を読み上げる/記録を映す/判定は文言・形・音。


相原は卓上のペン皿を皆から見える位置へそっと寄せた。


軸の色が赤・緑・黒の三本。小さなラベルが貼ってある。


相原の指が一瞬だけ緑の軸のラベルに触れ、なにごともなかったように離れる。


「始めます」


相原はモニタに本人控え+会社記録を並べる。

ことねが読み上げる。


「“本人の一押し”がない確定は、18:00で自動的に戻ります」

右上に灰の帯——〈未成立:本人押下なし(18:00で戻る)〉。保存音カチ。


紗良が続ける。


「差し戻しは“一言”だけ。場所・理由・担当。線は一本で残します」


提出→差し戻し→再提出の一本線が画面に揃う。色名は出さない。言葉と形だけ。


ゆいが補足する。


「スクショでは証拠にしません。本人控えと会社記録を同時に固定」


会場の空気が少し落ち着く。前列の顎がそろって一度、下がる。


——拍手が起きかけたそのとき。



朱肉の蓋がコツと鳴る。

寺尾圭介。笑顔の温度は一定のまま、スタンプの列を2ミリずつ揃え直し、口を開く。


「白は事件、赤は正義。冷める前に出す。うめええええっ!」


相原はトーンを変えずに返す。


「今日は“色名”では判定しません。承認・差し戻し・ログの無色の一本線で終わらせます」


寺尾の指がペン皿へ伸びる。

迷いはない。ラベルには大きく「あか」と書かれたペンをつかみ腕を振り上げる。


寺尾、書類の“承認”欄へスッ、スッ、スッと塗り始める。


「赤に染めてやった。旨い皿は赤が命——うめええええええっ!」


スクリーンに拡大された線をみて、会場の空気が半拍ずれる。前列の総務がメモを止め、監査の視線がペン先に落ちる。


ことねはペン先を紙の角に置いたまま静止。紗良は条文メモの角を折りかけて止め、ゆいは保存キーの上で指を浮かせる。


寺尾は顔を上げない。スタンプをコツと弾き、線をもう一度なぞる。


「赤。完了の赤」


相原はモニタの文言を指で示すだけだ。


沈黙が少し伸び、後列から細い声が落ちた。






「……それ、何色なんですか?」



沈黙が一拍、長く伸びた。

寺尾の指先がわずかに震え、キャップのないペン先が紙の上で空を切る。会議室の空調音だけが一定に流れている。


相原は間を逃さず、リモコンを押した。スクリーンが切り替わる。

映ったのは町の小学校の学級通信のスキャンと、児童日記の写し。右下に当時の日付。



⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

学級通信(〇年〇組・担任印)

次の火曜は防災訓練(平日)です。各自、校庭集合。



児童日記(てらお けいすけ)

「あかのひはやすみだとともだちにきいた。

だからきょうはやすみ。ぼくはこうえんにいった。」


相原(落ち着いた調子のまま)

「“赤の日は休みだよ”と友達に教えられて、そのまま信じた。その日が“平日”だと分からなかった。だから学校にも、訓練にも来なかった。名簿の点呼が合わず、避難誘導が遅れた。小さな事故でしたが、大人たちは本気で探しました。——“赤で判断する”癖が、ここで根付きます。」


スクリーンが次の資料へ。

色覚検査の一部(本人同意の上で提出された過去の健康診断写し)。数枚の図柄は、会場の多くには普通に見えるが、寺尾は“視界全体が赤く見える”ことが注釈で示される。


相原

「寺尾さんの視界は“全体が赤色の世界”。そして子供の頃の影響で赤ではないと言われている平日が怖い。でも寺尾さんの目からしたら平日は全て赤く見えてるんだから、平日を他人の年休で塗りつぶして無理やり休み扱いにするしか安心することができなかった」


「じゃあ赤くない土曜日には手を出さなかった理由は……」


「平日じゃないからだ、土曜なら休みと最初からら怖くない。寺尾さんは赤い世界の中で、おそらく白いと思われるであろう平日をひたすらに他人の年休で上書きした。寺尾さんの視界からしたら元々赤いカレンダーにさらに赤で塗っているだけだから本当に安心していたかは俺にはわからない」



寺尾の喉が上下する。

相原は、テーブルのペン皿を少し回して正面に向けた。緑色のマジックペン、そのラベルには大きく手書きで「あか」と書かれていた。


相原

「このラベルは、私が貼りました。意地悪ではありません。“色名に頼らず終わらせる”検証のためです。紛らわしくしてすみません。でも、さっき寺尾さんが“赤”と言って塗った色は“緑”でした。」


前列の総務が小さく息を呑む音。監査のボールペンがコツと紙の端を叩く。


寺尾はゆっくりと視線を上げ、スクリーンと自分の手元を何度か往復させた。料理の比喩は、もう出てこない。


寺尾

「……赤で塗っておけば安心でした。平日が赤なら、事故が起きない。塗らないままでいるのが、怖い。だから、塗りました。誰のでもいいから、赤くすれば——」


声が細く途切れる。

相原は一拍置いて、さらにスライドを送った。社内の勤怠・接続ログの一覧、それと営業日報の時刻が一本線で並ぶ。



相原

「“休む”と書かれた日に、あなたは働いていました。年休は“消化”と言いながら、実際には“在席”で数字を積んでいた。そして——」


画面に短いメールが映る。件名と日付、送信者は社長。本文は一行だけ。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


「十人分働くなら、年休は“食って”いい」


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎



相原はそれ以上を読まない。文と形だけを置く。

会場の空気が半度下がる。目線が自然と監査へ集まる。


相原は続けず、もう一枚だけ出した。

それは勤怠の特記事項として保存されている一文。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


「先輩、気づかなくてごめん」


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


相原

「先輩が寺尾さんに“休め”と言った日のログです。その日の先輩は“目が真っ赤”で、普通なら“休んでください”と誰もが言う状態でした。でも、寺尾さんには“赤”が見えなかった。なぜならあなたの世界は赤が普通だからですよね」


「はい、あの時の先輩の目はいつも通り“真っ赤”でした」


寺尾の指が、机の角でコトと小さく鳴る。肩が目に見えて落ちる。視線は、緑の線と『あか』ラベルのあいだを行き来し、戻ってこない。


寺尾

「気づきませんでした。赤い目の注意に……。そこからさらに怖くなって平日を塗りました。誰のでも。そうしないと、また事故が……」


そこまでで、声が出なくなった。

相原は深く息を吸い、短く結ぶ。


相原

「今日は“色”で判定しません。“休むと書いた人が使う”“本人の一押しがなければ18:00で戻る”。それで終わらせます。」


監査がマイクをとる。声は低く、はっきりしていた。


監査

「記録。本日の暫定標準——“本人押下なき確定は18:00で戻る”、運用開始。第三者による“代理確定”および“消化名目での在席”は調査対象。関与者の権限を一時停止。経営層の関与についても別途審査。」


社長席のほうで、椅子の脚がかすかに鳴った。

会議室には拍手は起きない。紙を揃える音、保存音のカチだけが散発的に落ちる。


寺尾はゆっくりとペンを置いた。キャップを閉めようとして、うまくいかず、もう一度やり直す。

視線は相原に向かって、すぐに床に落ちる。

料理の言葉は戻らなかった。ただ、かすれた声で短く言う。


寺尾

「……すみません。」


相原はうなずくだけだった。責める言葉は置かない。

スクリーンには、色の名のない一本線だけが残る。


提出——差し戻し——再提出——完了。

言葉と手順で終わることを示す線だった。

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