第7話 前押しの罠


午前十時。旧本社・小会議室B。

白い蛍光灯の下、長机の角は磨かれて鈍く光る。エアコンの吹き出し口が一定に鳴り、紙の匂いにうっすらと朱肉が混じる。


相原 迅は先に着いて、ノートを開いた。

ドアが音を立てずに開く。寺尾 圭介。ネイビーの背広。左手には薄いクリアファイル、右手には朱色のスタンプを一本。席には座らない。机の端に指を添えて、スタンプの向きを自分の方に直角で合わせる。


「時間、もらうよ」


「はい。“有給運用を落ち着かせる”話をします」


寺尾はスタンプの蓋を一瞬だけ開け、空気の匂いを確かめる。蓋は無音で戻った。微笑は温度一定。


「若い頃、有給を取った先輩がいた日に、重い事故が出た。それから職場では、『誰かが休むと不幸が増える』が合言葉みたいに回った」


相原は黙って聞く。寺尾は胸ポケットから短い赤いクレヨンを指先で転がし、すぐ仕舞った。


「迷信だって分かってるさ。でも誰かが握れば、迷信は“文化”になる。だから、俺は“人の有給は俺が使う”って決めた。誰も不幸にしないために」


相原「だからこそ、“本人が押す”を徹底します。押せないなら戻る。第三者が確定は無しです」


寺尾はゆっくり頷いた。スタンプの朱を親指で軽く叩く(トン、トン)。


「話は、聞くよ」


――


午後一時。大会議室。

長机がまっすぐ並び、プロジェクターの光が埃を浮かせる。監査・総務・法務・現場の代表。空調は一定。


相原はホワイトボードに四行だけ書く。

1.本人の一押しで確定(第三者確定なし)

2.提案カードで“お願い”は可([承認][別日][却下])

3.正午で当日受付しめ(超えたら自動で翌営業日)

4.18:00で未確定は静かに戻る


ことねが本人押し→本人控え(会社記録との二面同報)を実演。

紗良が差し戻し(一言)の一本線を見せ、片面スクショは証拠不成立だと明快に言い切る。

ゆいが提案カードを開き、“第三者に確定ボタンが存在しない”UIを画面で示す。


監査「例外(慶弔・急病)は?」


相原「“急ぐ”ことと“誰かが押す”ことは別です。急ぎ用の型を用意し、本人の一言から始めます。押せなければ翌日に安全に回します」


説明が終わる。控えめな拍手が一周。相原は頭を下げる。


その瞬間——寺尾が立つ。椅子は軋まない。マイクのケーブルを直角に揃える。


「異議、あります」


寺尾はスタンプを転がして列の角度を揃え、人差し指を立てる。


「① 前押し“預かり”。本人の押しが怖い子はいる。だから“押しだけ先に預かる”。当日は“預かった本人の押し”を俺が差し込む。字面は守る。怖いのは救う。——“本人の一押しで確定”、ですよね?」


ざわ、と小さい空気の波。寺尾は中指も立てる。


「② 提案カード占拠。提案は自由だ。なら毎日ぜんぶ、俺が先に提案しておく。本人が押したければ、俺の提案を承認すればいい。楽だ。——“お願いは提案カードで”、ですよね?」


言い終えると、寺尾は朱肉の蓋に爪で小さくコツ、と触れて呼吸を整える。笑顔は崩れないが、瞳孔がわずかに開く。


相原は一歩前へ。


「“預かり押し”は不可です。承認は“本人端末からの押したのみ有効”とします。第三者端末からは自動で《不成立(代行押下)》として記録され、確定には使えません。また、占拠は選択肢の奪取です。上限と相手方(本人以外)の連続提案禁止を入れます。不受理にします」


寺尾はスタンプを指の腹でトン、トンと二度叩き、息を細く吐く。


「あなた達は“押し方”を教えた。俺は“押させ方”を教える。勝負はルールじゃない。文化だ。——文化は、染めれば勝ち」


最後の一語で、寺尾は無意識に“赤いキャップ”を立てた。カチという小さな音。

前列の誰かがペン先を止める。拍手の残り香が消え、空調だけが回る。


相原はホワイトボードの端に二行、追加で太字にした。


・預かり押し=不受理(端末不成立)

・提案占拠=不受理(上限/連続禁止)


ペンのカチが一度。

寺尾はスタンプの列をもう一度揃え、押さない。押させたい形だけ、朱が光る。

その喉の奥で、誰にも聞こえないほどの小ささで——


「……うめええええっ」


相原は聞かなかったふりをした。聞いた上で、仕様に書く。


会議は、まだ終わっていない。

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