第2話
状況分析(シチュエーション・アウェアネス)
背中に刻まれた「仁王」の衝撃を、坂上真一(中身50歳)は強制的に意識の底へ沈めた。
(…非合理的の極みだ。だが、現実に存在する)
湯殿から上がり、雪之丞が用意した真新しい絹の着物に袖を通す。
50年の軍隊生活で染み付いた体には、柔らかすぎる感触がひどく落ち着かない。
執務室であろう座敷に戻ると、秋元雪之丞がまだ畳に額をこすりつけるように平伏していた。
第一話での坂上の一喝(いっかつ)が、よほど骨身に染みたらしい。
坂上は、この身体(25歳)にとっては不釣り合いなほどの威厳をもって、上座に座した。
北辰一刀流で鍛えた体幹は、完璧な正座(せいざ)を可能にする。
「面(おもて)を上げろ」
「は、はいぃ!」
雪之丞がビクッと跳ねるように顔を上げる。その目は恐怖に濡れていた。
「俺は……」
坂上は言葉を切る。
(俺は誰だ、と聞くわけにはいかんか)
「俺の現在の『任務(GOMU)』を正確に報告しろ。所属、管轄、直面している懸案事項。簡潔にだ」
「ご、ごむ? はあ……」
雪之丞は混乱しながらも、必死で言葉を紡いだ。
「御奉行様は、坂上真一様。旗本二千石。ひと月前、先代(せんだい)……実兄君の急死に伴い、若年(じゃくねん)ながら北町御奉行に御就任なされました」
(兄の……死)
坂上の脳裏に、21世紀の記憶(祖父の死)が微かに重なる。
雪之丞は続ける。
「管轄は、神田から日本橋一帯。懸案事項は……その……」
雪之丞の目が泳ぐ。
「御奉行様が、その……ご就任以前は……『真さん』として、ちと羽振りが良すぎたため、町の者たちが『あのお遊び奉行に何ができる』と……」
(真さん。やはりあの彫り物と関係があるか)
坂上(中身50)は、この若き奉行の身体が、海自で言うところの「着任早々、部下の信頼を失っている」最悪の状態(ステータス)だと分析した。
「……規律の乱れは、指揮官の責任だ」
坂上がボソリと呟いた、その時だった。
「開けてください! 御奉行様にお目通りを!」
廊下から、甲高い若い女の声と、それを制止しようとする役人たちの怒声が響いた。
バァン! と、襖(ふすま)が乱暴に開け放たれる。
「無礼者! どこの者だ!」
役人の制止を振り切り、一人の娘が部屋に転がり込んできた。
年は20歳(はたち)そこそこ。
大きな瞳は怒りに燃え、邪魔な長髪を深紅(しんく)の紐で乱雑に束ねている。
帯には、役人ではないが、しかし公的な十手(じって)が差されていた。
岡っ引きだ。
「お、蘭!? てめぇ、御奉行様の前だぞ!」
雪之丞が慌てて立ち上がる。
娘――早乙女蘭(さおとめ らん)は、雪之丞を無視し、上座に座る坂上を真っ直ぐに指さした。
「このお飾り奉行(おかざりぶぎょう)!」
「!」
雪之丞の顔が青ざめる。
「蘭! 口を慎め!」
「うるさいわね、雪さん! ――御奉行! なぜ父の事件を再吟味(さいぎんみ)してくださらないのですか!」
坂上(中身50)は、この娘を冷静に分析(アナライズ)した。
年齢、20。所属、岡っ引き。
動機、正義感。あるいは私怨。
その瞳(め)に宿る、理屈を超えた情熱。それは、坂上が防衛大学校時代に抱いていた「理不尽な死を許さない」という青い炎に酷似していた。
(……だが)
イージス艦長は、情熱だけでは務まらない。
「黙れ」
室内の空気が、再び凍りついた。
艦(ふね)の全乗組員を一瞬で黙らせる、絶対零度の指揮官の声。
蘭は、その威圧感(オーラ)に、思わず「ひっ」と息を呑んだ。
(……え? この人が……あの『真さん』?)
坂上は、感情を一切排した声で続けた。
「貴様の主張を述べろ。論理的(ロジカル)にだ」
「ろじ……?」
蘭は一瞬戸惑ったが、すぐに怒りで顔を真っ赤にした。
「父は! 同心だった父は、殺されたんです! 半年前に『事故』として処理されましたが、本当は……汚職を追っていて、口封じに!」
「その『口封じ』の根拠(こんきょ)は?」
「父がそんな間抜けな事故で死ぬはずない! 私の……私の勘(かん)です!」
「『勘』」
坂上は、小さく息を吐いた。
(戦術的価値、ゼロ)
「感情論は不要だ」
坂上は、21世紀(みらい)の言葉を、あえて使った。
「俺が必要としているのは、客観的証拠(きゃっかんてきしょうこ)だ。……『エビデンス』を提示しろ」
「えび……です?」
蘭は、その意味不明な言葉と、あまりにも冷酷な奉行の視線に、全身が震えるほどの屈辱を覚えた。
「――っ!」
彼女の大きな瞳から、悔し涙が溢れた。
「なによ……えびでんすって! あんたみたいな遊び人に、何が分かるっていうのよ!」
蘭は叫んだ。
「上等な着物を着て、民(たみ)の痛みが分かりもしないくせに! ええ、そうでしょうよ! あんたはお飾りだ! 父の無念は……私が、私一人で晴らしてみせる!」
彼女はそう言い捨てると、開けた襖をピシャリと叩きつけ、嵐のように去っていった。
しんと静まり返った部屋で、雪之丞が冷や汗を拭いながら、恐る恐る坂上に進言する。
「あ、あの……御奉行様。ちと、厳しすぎやしませんか」
「……」
「あいつは、先代も可愛がっていた『仏の早乙女』の一人娘でして……」
坂上は、蘭が去っていった襖を見据えたまま、静かに答えた。
「秋元」
「は、はいっ」
「証拠なくば、法は機能しない。それが全てだ」
その声の冷たさに、雪之丞は「こいつは、今までの『真さん』じゃねえ」と、背筋に冷たいものを感じていた。
坂上は、無言で立ち上がる。
そして、先ほど蘭が立っていた畳の上を、鋭い目で見つめた。
彼女が激昂(げきこう)した際、懐から落ちたのだろう。
そこには、一枚の古びた、小さな和紙(わし)が落ちていた。
坂上は、それを拾い上げる。
それは、何かの目録か、あるいは暗号か。
米俵(こめだわら)のような意匠(いしょう)の隣に、不可解な数字が羅列(られつ)されていた。
蘭の父、故・早乙女同心の遺品。
「…………」
坂上(中身50)は、その不審なメモを握りしめた。
「……だが、証拠(エビデンス)は待つものではない」
その瞳は、北町奉行ではなく、獲物(ターゲット)をロックオンした、イージス艦長のものだった。
「――『探す』ものだ」
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