めぐりあわせ。
風月夜
第1話
「保険証はお持ちですか?
では、こちらにご記入ください。」
受付で渡された用紙には、無情にも、今日はどうされましたかと書いてあった。
望まない妊娠、わたしはお腹の子供を産みたいだなんて、口にしてはならない。
それは破滅への道だからだ。
切なくて 淋しい…。
そんな言葉は言ってはならない。
そう決心して、ここへ来たのだ。
これが一番ベストな選択だからである。
わたしはある小さな町の産婦人科に入った。
ここでなら、そっと処置できる。
終わったらまた、いつも通りの仕事で逢える。
だからここを選んだ。
受付を済ませて待合室で待っていると、ご主人と一緒に妊婦さんらしき人が入ってきた。
斜め前の席に座り、奥さんの背中を優しくさするご主人の姿に 胸が苦しくなった。
「大丈夫だって、きっとできてるって。」
隣に座る奥さんの横顔に笑顔はなかった。
わたしの名前が呼ばれた。
ドアを開けて、診察室に入る。
「そこに横になってください。
う〜ん、あ、ここが袋だね。
分かりますか?
ここに小さい袋があるでしょ、これが赤ちゃんが入っているところです。」
年老いた先生はお腹の中の小さな袋のサイズを図り、今8週目になると言った。
わたしの中に命が宿ったのだと、実感させられた。
「…わたし、産みません。」
感情を出してはいけない。
先生の顔を見て、もう一度言った。
「この子を産めません、だからーーー。」
先生は、わかりましたと返事をして、その手続きを看護師に命じた。
待合室に戻り、椅子に座ると、さっきの奥さんが診察室に呼ばれた。
ご主人は仕事で会社に戻らなければならないと電話で話していて、奥さんは一人で診察室に入っていった。
受付の看護師さんに呼ばれたわたしは
「ここに、ご主人の署名をしてきて下さい。帰りは夕方になりますのでーー 。 」
説明を受け、来週手術をする事を決めた。
無情だねー夫なんて居ないのに。
夫になって欲しい人は居るのですが…そう心の中で言ってみたけれど、言葉にしたのは
「いない時は?」 だった。
「ご結婚されてなかったのですね。
では、御相手の方のお名前を。
承諾書ですので…。」
意地悪ではないのだろう。
仕事だから…この人も。
わたしはコクリと頭を下げ、会計を済ませた。
靴をはこうとすると、外は土砂降りの雨だった。
タクシーを呼んだが、しばらく時間がかかるらしい。
こんな所、早く出たいのに……。
わたしは仕方なく待合室で待つことにした。
大好きな小説を鞄から取り出し、あの人の世界に入った。
何度読んでも、わたしの心を夢中にさせる。
一枚一枚ページをめくる度に、あの人の心が伝わってくる…。
わたしはやっぱりこの人が好きなのだ、彼の事を考えるだけで笑顔になれて、私の崩れそうな決心を留めてくれる。
さっきの奥さんが診察室から出てきた。
目が合ったので軽く会釈すると、わたしの左側に座った。
「あ、これ…。
私も大好きです、この小説。」
わたしは彼女の顔をみた。
「ありがとうございます。
いいですよねーこの本。」
わたしは自分の手掛けたこの本が、誰かに直接 好きだなんて言われた事に高揚したのか、お礼を言ってしまったのだ。
「え〜?どうしてお礼を?」
彼女はそう言った。
「ハヤサカ マナエさん」
受付で名前が呼ばれ、支払いを済ませた彼女はまた、私の横に座った。
「凄い雨ですね。
しばらく経ってから電話しようかな。」
と言った。
他に患者はおらず、ちょうどお昼休憩なのか、看護師さんは受付のカーテンを閉めようとした。
「あの、雨が止むまで、こちらで待たせてもらってもいいですか?」
彼女は、さっきご主人といた時とは別人の様に、明るく サバサバとしてそう言ったのだった。
わたし達は雨がやむまで、この静かな待合室でふたりきりの時間を過ごすことになった。
ニコッと笑顔でわたしの方を向いて頷き、販売機でコーヒーを買い、良かったらと、わたしに りんごジュースを差し出した。
「ありがとうございます。
あの、珈琲飲んで大丈夫なんですか?」
彼女にそう聞くと
「私は妊娠、してないの。
出来ないのよ…子供。」
フゥ〜っと熱い珈琲を冷ましながら 話を続けた。
「…無精子症なんだって、うちの人。
だから出来るわけないの。
でもね、言えないでしょ。
夫になんて言えばいいのか分からなくて。」
わたしをじっと見つめた後
「言えないよ。」彼女は哀しく笑った。
「じゃあどうして病院に?」そう聞くと
「先生に頼んでいるの。
夫に言えないから、夫が諦めるまで通わせてくださいって…。」
わたしは無情だ…。
「ごめんなさい。わたし…」
なんて酷い人間なのだ…わたしは。
「いいの、私が話したんだから。
あなたは 妊娠…してるの?」
そう聞かれた。
「8週目…らしいです。」
思わず、りんごジュースを見つめた。
「もしかして、嬉しくないの?」
彼女は微笑んでいた。
「産めないです…。
産んではいけないんですーこの子。」
感情が勝手に出て、自分でも分からないけど、涙が溢れていた。
「欲しくてもできない人と、産めないのにできちゃう人…。
これって何かの巡り合わせなのかしらねー。」
彼女はまた、哀しく笑った。
「マナエさんて言うんですね、お名前。
さっき受付で…。」
わたしは、彼女の言った『巡り合わせ』と言う言葉に、つい、反応しまったのだ。
「あ、はい。早坂まなえです。」
「私は、東条 えまなです。
下の名前が、何だか入れ違ってたので、つい…。」
わたしは笑って彼女を見た。
「どんな字ですか?
私は、愛情の愛に、永遠の永で愛永と書きます。
エマナさん、あなたは?」
「わたしは、笑顔の笑に愛で、笑愛。
…………
人を笑顔にして、皆に愛されるようにって付けてくれたんじゃないかってー。」
あの日、彼がそう言って私の名を褒めてくれたんだ…。
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