「俺の珍棒の方がいいだろ?」――俺が不眠不休で守った現場は上司の財布と寝室だった。NTRの絶望から這い上がり、奴のキャリアを完全破壊する。

ネムノキ

第1話

 警告音が鼓膜を執拗に殴りつけてくる。


 赤、黄、緑。明滅する無数の警告灯が、巨大な倉庫の天井を不気味に染め上げていた。ベルトコンベアを流れる段ボール箱が、まるで意志を持った生き物のように不規則な挙動を見せ、至る所で衝突と落下を繰り返している。


「センター長! 7番レーン、また行き先不明の荷物が混入してます!」


「システムダウン! ハンディターミナルがサーバーに接続できません!」


「お客様相談室から内線! 昨日出荷したはずの通販サイト『楽園マート』様向けの荷物が、全く別の届け先に配送されたと……クレームです!」


 怒号と悲鳴がけたたましい金属音に混じって、橋爪洋一の耳に飛び込んでくる。


 ここ、大手物流「飛脚エクスプレス」が誇る神奈川県綾瀬市の巨大物流拠点『LOGI'X綾瀬』は今、まさしく戦場と化していた。


 物流業界を震撼させる『2024年問題』。


 ドライバーの労働時間規制強化によって引き起こされる、輸送能力の劇的な低下。その歪みは、日本中の物流拠点で悲鳴を上げていた。


 だが、洋一がセンター長を務めるこの綾瀬の拠点だけは、その様相が明らかに異常だった。


 原因不明のシステムエラー。頻発する誤出荷。特定の配送ルートだけが麻痺する不可解なトラブル。


 まるでこの巨大な機械仕掛けの城が、内部から崩壊しようとしているかのようだった。


「7番レーンは手作業で仕分けろ! 行き先が分からないものは全て保留だ!」


 洋一は嗄れた声で指示を飛ばす。


「システム担当! サーバー室に誰か向かわせろ! 物理的に再起動を試せ!」


「楽園マート様の件は俺が対応する! 担当者名を教えろ!」


 不眠不休の対応が始まって、既に70時間が経過していた。


 最後にベッドで眠ったのがいつだったか、もう思い出せない。シャワーも浴びておらず、作業着からは汗と機械油の匂いが染みついている。三日間口にしたのは自販機の栄養ドリンクと、部下が差し入れてくれた冷たいコンビニのパンだけだ。


 目の下の隈は深く刻まれ、充血した瞳はモニターの光に灼かれるように痛む。鏡を見なくてもわかる。28歳という実年齢より、今の自分は十年は老け込んで見えているに違いなかった。


「センター長、少し休んでください。顔色、死人みたいですよ」


 アルバイトリーダーの若者が心配そうに声をかけてくる。その優しさが、今は逆に洋一の心を抉った。


「平気だ。お前たちこそ、無理はするなよ」


 痩せ我慢だと分かっていた。身体はとっくに限界を超えている。だが、責任者である自分が倒れるわけにはいかなかった。部下たちの信頼が、疲弊しきった洋一の身体を支える最後の杭だった。


 その時、ポケットでスマートフォンが震えた。


 画面に表示された名前に、洋一の眉間にわずかに力がこもる。


『坂東エリアマネージャー』


 直属の上司だった。


「……はい、橋爪です」


 努めて冷静な声で応答する。


『お疲れ、橋爪くん。そっち、まだ大変みたいだね』


 電話の向こうから聞こえてくるのは、坂東和一の落ち着き払った声だった。32歳という若さでエリアマネージャーに昇進したエリート。いつも高級なオーダースーツを着こなし、弁が立つ。部下からの評判も、表向きは悪くない。


「申し訳ありません。現在も原因不明のトラブルが断続的に発生しており……」


『うーん、そうだねぇ。本社もかなり問題視してるよ。2024年問題の影響だとしても、橋爪くんのセンターだけ突出してトラブルが多い。これは、マネジメントの問題じゃないかって声も上がってる』


 労うような口調の中に、鋭い棘が隠されている。それはじわりじわりと洋一の責任を追及する、巧みな言葉の罠だった。


『(お前がどれだけ惨めな状況か、手に取るように分かるよ)』


 言葉にはしない嘲笑が、声のトーンから透けて見えるようだった。


「……全力で、復旧に努めております」


 反論する気力もなかった。ただ頭を下げることしかできない。


『責任者なんだから、しっかり頼むよ。私も上から色々言われて、大変なんだ』


 そう言って坂東は一方的に電話を切った。


 残されたのはツー、ツー、という無機質な切断音と、洋一の胸に残る重い疲労感だけだった。


 俺が、不甲斐ないからだ。


 俺がしっかりしていれば、部下たちにこんな無理をさせることも、そして……洋子を、一人で待たせることもなかったのに。


 自責の念が、鉛のように胃に沈む。


 洋一はスマートフォンのロックを解除し、メッセージアプリを開いた。


 一番上に表示されているのは、同棲中の恋人、的場洋子とのトーク画面だ。


『今日も遅くなるの? ご飯、温めて待ってるね』


『何かあった? 大丈夫?』


『無理しないでね。いつでも連絡して』


 日付を遡るほどに、彼女からの心配のメッセージが並んでいる。その一つ一つが罪悪感となって、洋一の胸を締め付けた。


 キーボードをタップする指が鉛のように重い。


『すまん、今日も帰れない』


 それだけを打ち込むのが精一杯だった。本当は声が聞きたかった。電話をかけて、彼女の優しい声に癒されたかった。だが、今の自分の嗄れた声を聞かせれば、余計な心配をかけるだけだ。


『現場が、火を噴いてる』


 そう付け加えて、送信ボタンを押した。


 既読の表示は、すぐにはつかなかった。


 ――――ふと、洋子の笑顔が脳裏をよぎる。


 この綾瀬市に二人でアパートを借りて、もう二年になる。


 東名高速のインターチェンジが近く、巨大な物流倉庫が林立するこの街は、洋一の職場にとってはまさに要衝だった。


 しかし、その一方で市内には鉄道の駅が一つもない。都心へ出るにはバスで隣の市の駅まで行かなければならず、どこか社会から切り離されたような独特の閉塞感が漂っている。


 引っ越してきた当初、洋子は「静かで住みやすいね」と笑っていた。


 駅がない不便さも、二人で車で買い物に出かければ、それはそれで楽しいイベントになった。


『洋一、今日もお仕事お疲れ様』


 激務を終えてアパートのドアを開けると、いつもエプロン姿の洋子が温かい夕食を用意して待っていてくれた。彼女の作る生姜焼きが、洋一は何よりも好きだった。


『洋一が頑張ってるから、私も頑張れるよ』


 そう言って微笑む彼女の存在が、洋一にとって唯一の支えであり、安らぎだった。


 物流業界の過酷な労働環境。理不尽な要求を突きつけてくる顧客。その全てを、洋子の「おかえり」の一言が洗い流してくれた。


 だが、この『2024年問題』が本格化してから、二人の時間は少しずつすれ違い始めていた。


 深夜帰宅は当たり前になり、休日出勤も増えた。洋子が用意してくれた夕食も、一人で電子レンジで温めて食べることが多くなった。


 駅のないこの街で、友人も少ない洋子は、日中アパートで一人きりで過ごす時間が長くなっているはずだ。寂しい思いをさせている自覚はあった。


「早く、この状況をなんとかしないと……」


 洋子の笑顔を守るためにも、この異常事態を一日も早く収束させなければならない。


 洋一は冷え切った栄養ドリンクを呷り、再び戦場へと意識を戻した。


 それからさらに十数時間が過ぎた。


 日付はとっくに変わり、時計の針は深夜三時を指している。


 度重なるトラブル対応の末、現場の混乱はようやく小康状態を取り戻していた。部下たちも交代で仮眠室へと向かわせている。


 洋一は事務所のパイプ椅子に深く腰掛け、天井を仰いだ。


 もう指一本動かすのも億劫だった。瞼が勝手に落ちてこようとするのを、気力だけで押しとどめている。


 思考が霧の中にいるかのようにまとまらない。


 このままでは本当に倒れる。


 いや、それよりも判断力が鈍ったまま現場にいれば、さらに大きなミスを誘発しかねない。


「……一度、帰るか」


 ぽつりと独り言が漏れた。


 シャワーを浴びて、せめて下着だけでも着替えたい。そして、ほんの少しでもいい。洋子の寝顔を見れば、この張り詰めた神経も少しは和らぐかもしれない。


「リーダー、少しだけ抜ける。着替えを取ってくるだけだ。何かあったら、すぐに携帯に連絡をくれ」


「はい! お気をつけて」


 まだ作業を続けていたアルバイトリーダーに声をかけ、洋一はよろめくように事務所を出た。


 深夜の冷気が、火照った身体に心地よかった。


 愛車のエンジンをかけ、慣れた道をアパートへと走らせる。


 街灯だけが照らす静かな住宅街。いつもならこの帰り道で仕事の緊張が解けていくのを感じるのに、今夜は妙な胸騒ぎが消えなかった。


 アパートの駐車場に車を停め、エンジンを切る。


 見上げた自分たちの部屋――203号室の窓からは、オレンジ色の温かい光が漏れていた。


 まだ、起きて待っていてくれているのだろうか。


 その事実に、疲弊しきった心が少しだけ温かくなるのを感じた。


 急いで着替えだけ済ませて、またセンターに戻らなければならない。だが、一目だけでも顔が見たい。


 階段を上り、203号室のドアの前に立つ。


 ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込もうとして……ふと、ドアノブに手をかけた。


 鍵は、かかっていなかった。


「……不用心だな」


 小さく呟き、洋一は静かにドアを開けた。


「ただいま……」


 囁くような声は、しんと静まり返った室内に吸い込まれていく。


 返事はない。


 リビングの明かりはついているが、人の気配はしなかった。テーブルの上にはラップのかかった食事が二つ、寂しそうに置かれている。


 疲れて、寝室で先に寝てしまったのだろう。


 そう思いながら洋一は靴を脱ごうとして、その場に凍りついた。


 玄関の三和土に、見慣れない一足の革靴が置かれていた。


 艶やかに磨き上げられた黒のストレートチップ。イタリアの高級ブランドのものだろうか。およそこの庶民的なアパートには不釣り合いなほど、それは上質で高価そうに見えた。


 サイズは自分よりも、明らかに大きい。


 そして、嗅いだことのない甘いコロンの香りが、微かに鼻腔を掠めた。


 ――誰のだ?


 全身の血が急速に冷えていくのを感じた。


 心臓が、嫌な音を立てて脈打ち始める。


 洋子の父親か? いや、来るなら必ず連絡があるはずだ。


 まさか強盗……? いや、それならリビングがこんなに片付いているはずがない。


 洋一は息を殺し、物音を立てないようにスリッパを履いた。


 一歩、また一歩と廊下を進む。


 目指すのは一番奥にある寝室だ。


 ドアは、数センチだけわずかに開いていた。


 その隙間から、室内のベッドサイドランプの明かりが漏れている。


 そして。


 音も、漏れていた。


 くちゅ、くちゅ、と粘着質な水音。


 時折混じる肌と肌がぶつかるような鈍い音と、ベッドがきしむ微かな音。


 そして、女の甘く蕩けたような喘ぎ声。


「……ぁ……んっ……」


 聞き間違えるはずがなかった。


 毎日、すぐ隣で聞いていた声だ。


 洋子の声だった。


 頭が、真っ白になる。


 身体中の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて必死に堪えた。視界が歪み、呼吸が浅くなる。


 吐き気がこみ上げてくる。


 疲れているんだ。これは幻聴だ。三日も寝ていないせいで、おかしな夢でも見ているんだ。


 そう自分に言い聞かせようとした、その時。


 もう一つ、声が聞こえた。


 低くねっとりとした、それでいてどこか愉悦に満ちた男の声。


 ここ数日、何度も電話で聞いた、聞き覚えのある声。


「どうした、洋子ちゃん。声、我慢しなくていいんだぞ?」


 ――坂東……さん……?


 なぜ。


 なんで上司の坂東さんが、俺の家に……?


 洋子と……?


 思考が追いつかない。理解が、現実を拒絶する。


 だが、耳から入ってくる情報は無慈悲に洋一の心を破壊し続けた。


「あ……だめぇ……坂東さ……んっ、そんな、とこ……っ」


 洋子の聞いたこともないような、拒絶しきれない甘さを帯びた嬌声が、男の低い笑い声に掻き消される。


 そして、とどめの一言が洋一の鼓膜を突き破った。


「洋子ちゃん……橋爪より、俺の方がいいだろ?」


 世界から、音が消えた。


 心臓を直接握り潰されたような激痛に、息が止まる。


 ああ、と洋一は思った。


 俺の居場所は、もうどこにもないんだ。


 仕事も、家庭も、信じていたもの全てが、音を立てて崩れていく。


 震える手が、ゆっくりと寝室のドアノブに伸びていくのを、洋一はまるで他人事のように見つめていた。


 これは夢だ。違うと信じたい。


 だが、この目で確かめなければ、前に進むことすらできない。


 冷たい金属のドアノブに、指先が触れた。


 ゆっくりと、回す。


 カチャリ、と小さなラッチ音が響き、ドアがわずかに開いた。


 その隙間から漏れ出す、二人の熱が、洋一の肌を焼いた。


 そして、視界の端に、おぞましい光景が飛び込んできた。


 見慣れたベッドシーツの上で、見知らぬ男の逞しい背中と、愛した女の白い脚が、醜く絡み合っていた。

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