FAIN/plot02
斬条 伊織
第十章 レオラとカイ
第1話 白の上の白の前で
2005年4月17日
MoMA(ニューヨーク近代美術館)第507室
カジミール・マレーヴィチ〈白の上の白(Suprematist Composition: White on White)〉展示室
カイ・エトルーリオは、やや細身の体を黒いジャケットで包み、短く整えた黒髪に無精ひげを残している。鋭い目つきと、薄い唇の端に絶えず皮肉めいた影が漂う。コーヒーカップを飲み干し、静かにゴミ箱へと捨ててから、白い展示空間へ足を踏み入れた。
ほどなくして、レオラ・モレーヴが後ろから追いついてくる。柔らかな栗色の髪を後ろで束ね、淡いグレーのジャケットに白いブラウス。身長はカイよりわずかに低い。歩き方は控えめだが、どこか芯の強さを感じさせる。手にはパンフレットを持ち、指先で無意識に折り目をつけながら、微笑みかける。
「またコーヒー飲んでたの?本当にカフェイン好きだね」
「アメリカのコーヒーは薄すぎる。……まあ、目だけは覚めるけど」
「展示室に持ち込めないのが、ちょっと残念」
「仕方ないさ。芸術とコーヒーは相性がいいんだが」
レオラは小さく笑って、カイの横に並ぶ。
「朝からそんなに飲んでて平気?時差ボケひどいの?」
「もう二晩目だ。泊まってるホテルが静かすぎて、夜になると、かえって目が冴えてくる」
「それは羨ましい。こっちは通りに面した部屋で、窓を閉めてもタクシーのクラクションが止まらないの。……でも、そういう騒がしさも悪くないって思えてきた」
「君はどこでも適応するタイプだな。私はこういう“白い部屋”のほうがまだ落ち着く」
「それ、褒めてるの?皮肉も入ってる?」
「両方だよ。落ち着くって言っても、慣れてるだけかもしれないしな」
少し間をおいて、二人は〈白の上の白〉の前で足を止める。
「……この絵、不思議。何も描いてないようで、でもずっと見ていられる」
「君はそう感じるのか。誰かにはただの空白にしか見えないだろうけどな」
「私はむしろ、余白があるほうが安心できるな。何もかも詰め込まれている美術館より、こういう余白があった方が息がしやすい」
「安心……か。空白が君には安心で、私には少し落ち着かない。不思議なもんだ」
レオラは静かに絵を見上げる。
「……今日の討論会、ちゃんと原稿は書いてきた?」
「一応な。でも壇上に立てば、どうせ全部飛ぶさ。君がいると特にな」
「私は読むだけで精一杯だよ。緊張してきた?」
「別に。壇上よりも、終わった後の記者会見のほうがよっぽど気が重い」
「確かにね。どっちが目立っても、明日の新聞は大騒ぎになりそう」
「勝ち負けの問題か?」
「ううん。今日は“響き方”の問題だと思う。……私たち、多分、同じことを目指しているんじゃない?」
「本当に、そう思うのか?」
「さあ、どうだろうね」
彼女はパンフレットを指で弾き、くるりと背を向ける。
白い展示空間を、静かな足音で出口へと歩き出した。柔らかな栗色の髪が小さく揺れる。扉の外から、かすかな人の気配と靴音が遠ざかっていく。
カイ・エトルーリオはひとりその場に残り、再び絵へと視線を戻した。
〈白の上の白〉。
境目のわからない白が、静かに彼の姿を映し返す。
カイはしばらく無言で立ち尽くし、ほんのわずかに眉をひそめて、その“空白”の奥を見つめていた。
——同日正午、ウエスト34丁目。ガラスと鉄骨で編まれた巨大な天井が、春の陽光を万華鏡のように反射している。
ジャヴィッツ・センター(Jacob K. Javits Convention Center/ニューヨーク)
第十二回国際意識科学会議 公開討論セッション
「“個人”という言葉は、私たちが思っているほど単純ではありません」
レオラ・モレーヴは、壇上のマイク越しに静かに語り始めた。
スポットライトが彼女の顔を淡く照らし、客席のざわめきがごくわずかに落ち着いていく。
「私たちの自我は、決して独立した一点ではなく、絶えず他者との関係のなかで変化し続けています。記憶も、感情も、価値観も——その根は、すべて“私たち”のあいだに生まれるものです」
壇上の反対側で、カイ・エトルーリオが無言で腕を組んだ。
「つまり“個人”とは、他者との交わりのなかでこそ成り立つ仮構です。もし意識の本質を問い直すなら、“私”という一点の外側——“関係”そのものに目を向けなければなりません」
〈自己の成立条件——個体主観の実在性と関係性構造〉をテーマに、世界各国から意識研究の最前線に立つ学者や医師、哲学者、神経科学者が集まっている。
壇上の左右には巨大なスクリーン。手前には円卓状のパネリスト席。レオラとカイの両脇には、有力な学者たちが数名、補助席で控えていた。
客席には名札を下げた各国の研究者、院生、記者、企業のリサーチャーまで、さまざまな顔ぶれが並ぶ。英語と他言語が交錯するざわめき、電子機器の操作音、静かにノートを取るペンの走り——国際会議らしい熱気が満ちていた。
この公開討論セッションは、今回の会議の“最大の目玉”と位置づけられている。正面スクリーンには
“Panel Discussion: The Conditions for the Emergence of Self”
と題されたスライドが映し出され、会場全体の好奇心が、壇上の二人を包み込んでいた。
進行役がカイに目を向ける。
「エトルーリオ博士、どうぞ」
カイはゆっくりとマイクに近づいた。
「“関係”ね。ずいぶん曖昧な話です。もし“個人”が幻想なら、なぜ私たちはこうして別々に壇上に立っているのでしょう?」
その声に、客席から小さな笑いが起きた。
「私は“個人の断絶”こそが意識の核心だと考えています。他者と関係しようとするからこそ、私たちは“分かれ目”を自覚するのです」
レオラは一拍おいて静かに応じた。
「エトルーリオ博士は“断絶”——すなわち主体の不可侵性を強調されますが、私はそれを“経験の自己完結性”と呼び換えてもよいと思います。しかし、その経験を構成するすべて、表象・記憶・言語・価値判断——は、先行する他者とのネットワークなしには成立しえません」
うなずく聴衆がいくつか見える。
「“個体主観”がいかに強固に見えようとも、それ自体がすでに社会的・文化的条件づけの産物です。主体とは“他者性”の沈殿層であり、私はその起源を“断絶”ではなく“関係性の過剰”——すなわち、自己同一性が他者によって絶えず揺さぶられる不安定さのうちに見出します」
カイは低く反論した。
「理論としては美しい。しかし“関係性の過剰”だけでは説明しきれない現象がある。たとえばトラウマや極限状態における自己感覚の持続、言語化できない“私”の内部経験……。それらはどんな社会的媒介や記号の網を通じても還元不能な余剰として残る。私はそれを〈断絶核〉と呼びたい」
進行役が短く頷く。レオラは落ち着いた声で続けた。
「〈断絶核〉という概念は魅力的ですが、それ自体が“自己同一性の危うさ”に対する恐れの裏返しではありませんか? フロイトが言う“残余”も、現象学における“志向的流れ”も、結局は関係性の網の中で生起する。主体は自己閉域ではなく、開かれた系として他者との関係で拡張され続ける“流れ”なのです。あなたの〈断絶核〉が孤立の中に“私”を見出すなら、私の研究は〈連環流〉——“私たち”のあいだに生まれ続ける自己の流れ、です」
会場の一角で、誰かが息を呑んだ。スクリーンの下でざわめきが走る。
カイの声が硬くなった。
「だが“流れ”だけでは、個人の存在論的孤絶——“誰にも共有され得ない体験”の事実に迫れない。関係性は基盤かもしれませんが、自己同一性の担保は“他者の不在”によってこそ確保される。私は“分かれ目”を否定しません。むしろそれこそが意識の最後の防波堤だと思う」
レオラはマイクに指を添え、言葉を整えた。
「エトルーリオ博士の〈断絶核〉がいかなる形で現れるにせよ、主体は常に“差延(ディファランス)”の只中で生成するプロセスです。“私”は決して一元的実体ではなく、他者性との遭遇において絶えず書き換えられ、遅延し、置き換えられてゆく“現前不在”の痕跡。エゴの現象性は、フッサールが論じた志向的流れのうちで他者へと開かれ、レヴィナスが言う“他者の顔”によって倫理的に揺さぶられ続ける。ドゥルーズ=ガタリ的に言えば、主体は“多様体(マニフォールド)”として、差異の生成を孕む流動的プロセスなのです」
客席の一角で哲学者が小さくメモを取る。
「つまり、主体はいかなる断絶を主張しても、その起源においては“関係性の無限遅延——他者のうちに自己を鏡像化し、常にズレの位置で生成される存在。アイデンティティとは“現前”ではなく、“脱現前=トレース”の連鎖によってのみ仮に形を取るのです」
カイは短く息を吐いた。
「だが“痕跡”や“差延”の理論は、主観的現前の残余を回避しているに過ぎません。あなたが“他者のまなざし”にすべてを委ねるとき、その外側で独立に現れる“言語以前の感覚体験”をどう扱う? フロイトの無意識が示した“残余”は、関係性から生まれるのではなく、むしろ関係が裂けるその隙間で顔を出す。ドゥルーズの生成論でさえ、触れられぬ“差異の核”を包摂できない。“私”という語は、どれほど転位してもなお、最後に現前する意識、対自的現前としてそこに留まる」
レオラはわずかに瞼を伏せ、そして開いた。
「“現前”という概念自体が、自己言及の循環に囚われています。ベンヤミンが言う“いま=ここ(Jetztzeit)”は、時間の流れを断ち切り、過去と未来を交差させる“歴史的断絶の空所”として宙吊りにされる。ラカンの“大他者”も、完全な存在ではなく、常に“欠如”を孕む象徴秩序にすぎない。“私”はその欠如の縁で揺らめきながら、他者の言葉によって立ち上がる。絶対的主体という想定は、むしろ“関係性の欠如”という幻想に過ぎません」
カイは眉をひそめた。
「“幻想”と呼ぶのは容易いが、現実の自己体験の裂け目、たとえば分裂症患者が語る“自己の異化”や、言語以前の感覚モード、それらは記号的構成を超えて現れる“差異の核”を指している。“私”の現前は、“他者の不在”という空白を切断点として生じる。私は、主体の真理は“不可視の断絶線”の上にしか現れないと考える」
レオラは短く息を吸い、静かに言葉を重ねた。
「けれど、私たちがその“断絶”を感じ、語り、意味づけようとする瞬間、それ自体がすでに“関係”の場に属している。もし本当に完全な孤絶があるなら、それは言葉にも、経験にも現れない“無”にとどまるはずです。ところが私たちはその“断絶”を語る。悲しみ、傷つき、他者に伝えようとする。そこにすでに“関係”の出来事が生じている。だから私は、〈断絶核〉さえも関係の網の中で浮かび上がる契機に過ぎないと考えます」
レオラの声には、学者としての静かな確信があった。
「私は、“主体の絶対的孤絶”よりも、関係性の網の中で生まれる“私たち”の可能性を信じたい」
会場にはしばし沈黙が訪れた。
そして、拍手。
カメラのフラッシュが数度、白く瞬いた。
会場には静かな共感と余韻が広がり、討論は幕を閉じる。
レオラには多くの質問者が集まり、カイはその場に立ち尽くす——その背に、かすかな影が滲んでいた。
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