裏切り、別離、そして…

現実の直面


待つこと二時間

繁華街の喧騒の中

 渉の心臓は登山を終えた後のように激しく脈打っていた。

キャップとサングラスで顔を隠し、渉は壁際に張り付いたまま、カフェの窓ガラスの反射越しに内部を観察する。


そして、それは起こるべくして起こった。


 カフェのガラス扉が開き、一組の男女が出てきた。女性は紛れもなく、渉の妻、高城和美だった。


 和美は、渉が自宅で目にした、攻撃的で派手な外出着ではなく、むしろ若々しく、快活な色のワンピースを着ていた。

そして、

その表情は、渉との口論が絶えなかった頃の、冷めた顔ではない。

 高校生の頃、初めて渉とデートをした時のような、無防備で、満たされた笑顔だった。


 和美の隣にいるのは、長身で清潔感のある青年。

間違いなく、古賀が言っていた藤井駿だろう。


 渉の視線は、和美の胸元に吸い寄せられた。


そこには、

 渉が贈ったはずの四葉のクローバーのペンダントはなかった。

代わりに、太陽の光を反射してキラリと輝く、安っぽいシルバーのネックレスが揺れていた。

それは、いかにも年下の男が選びそうな、ストレートで無邪気なデザインだった。


 二人はカフェを出ると、周囲を気にすることなく親密に歩き出した。駿が、和美の髪に付いた何かを払うような仕草をする。

 和美はそれを拒否せず、心から嬉しそうに笑った。


その瞬間

 渉の体から、怒りや悲しみといった感情が、ごっそりと抜け落ちた。胃袋を抉られるような、静かで冷たい絶望だけが、腹の底に残った。

模型の塗料を吹き付けるエアブラシから、全ての空気が抜けた後のような虚無感だった。


 渉は震える手で、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 古賀の忠告が脳裏にこだまする。「感情はゴミ箱に捨てて、事実(ファクト)だけを正確に集めろ」。


 彼は、人目につかないよう慎重に、二人の姿を複数枚撮影した。

その画像には、二人が笑顔で寄り添っている様子、そして、二人が小さなホテルの入り口へと消えていく、決定的な背中が記録されていた。


---この写真は、

渉が「愛の終わり」を決定づける、最後の、冷徹な「証拠」となった。



その夜、

帰宅した和美は、いつものように明るい声で「ただいま」と言った。   

 時間は深夜零時を過ぎていたが、酔っている様子はない。


「遅くまでごめんね。展示会の打ち合わせが長引いちゃって……」


 和美の嘘が、渉の心に響くことはなかった。

 渉の頭の中には、精密に記録された写真のデータ、そして弁護士の連絡先だけが残されていた。


 渉は、ソファに座ったまま、テーブルの上に置かれた四葉のクローバーのペンダントを指差した。


「和美。その展示会に、これをつけていかなかったのは、どうしてだ?」


 和美の顔から、一瞬で血の気が引いた。彼女のバイタリティと自己愛によって支えられてきた自信が、音を立てて崩れていくのが渉には見えた。


「な、何を言ってるの、ワタル……? 忘れていっただけよ」


「嘘だ。君が忘れていくはずがない。君にとって、それは僕との愛の象徴だったからだ。それより、代わりに何を身につけていった? 僕が知らない、若くて安っぽい光るものを」


 渉は静かに、だが一切の感情を排して、今日撮ったホテルの前での二人の写真を印刷したものを取り出し、テーブルの上に置いた。


 和美は、印刷された写真を見て、立ち尽くした。

そして、

 その写真が、いつ、どこで撮られたものか、すぐに理解したのだろう。言い訳も、怒鳴り声も、泣き叫ぶこともなかった。

 ただ、数秒の静寂の後、ポツリとつぶやいた。


「……いつから、知ってたの」


「今日、すべてを知った。そして、君が僕たちの愛を裏切った瞬間を、この目で確認した」渉は淡々と言った。「僕は、君と話し合うつもりはない。君は、僕たちの愛情を、金銭では贖えないほどの虚無感に変えた。だから、僕は弁護士を立てる」


「弁護士……?」


「ああ。君と、その藤井駿という男に、離婚と慰謝料を請求する」


 渉は、もはや人見知りの夫ではなかった。

和美の裏切りによって、感情を捨て去り、「自分の尊厳」を守るために動き出した、冷徹な事務処理者になっていた。


 和美は膝から崩れ落ちた。

彼女の瞳には、涙ではなく、

「問題が、感情的な喧嘩ではなく、法的かつ社会的な問題へと変貌した」

ことへの、根源的な恐怖が浮かんでいた。

彼女の猪突猛進さは、

「現実の冷たさ」の前で完全に打ち砕かれたのだ。


翌朝、

 和美は、ほとんど無言のまま実家に帰った。

 渉はすぐに弁護士に連絡を取り、収集した証拠と、和美の浮気の経緯を伝えた。


 渉が選任した弁護士は、古賀が推薦した経験豊富な女性弁護士だった。彼女は渉の緻密な記録を見て、冷静に言った。


「高城様。感情は一旦置いてください。慰謝料請求として、十分な証拠です。和美様と藤井様に対し、離婚と慰謝料請求を前提とした内容証明郵便を即座に発送します。藤井様については、実家のご両親にも連絡を取ることで、確実に回収を目指します。」


 渉は、駿の両親にまで波紋を広げることに一瞬躊躇したが、

弁護士の「確実に回収するため」という言葉に、感情を封じ込めて同意した。


その日から、

 渉の生活は一変した。和美の衣類や化粧品が消え、キッチンには

「半分の珈琲」を淹れる必要がなくなった。

しかし、

模型を組み立てる手は、以前のようにスムーズには動かなかった。


数日後、

内容証明郵便が和美と駿、

そして駿の両親に届いた。


 和美は、渉からの連絡ではなく、弁護士からの冷たい書面を受け取り、愕然とした。「夫婦」としてではなく、「加害者」として扱われる痛み。

書面に記載された、

具体的な「慰謝料請求額」の数字が、彼女の頭を殴った。


そして、

 駿は、大学の学費を稼ぐためのアルバイト代では到底払えない金額の請求書を、両親に見つけられた。彼の無責任な若さが、家族の経済的な破綻を引き起こすという、

重い代償を突きつけられたのだ。


これで、

 夫婦間の感情的な問題は終わり、親族と法廷闘争を巻き込んだ「現実の清算」が、本格的に始まることとなる。





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