変化の揺らめき

 聖都の朝に、柔らかな陽光が昇る。

 騎士宿舎の扉を押し開けて出てきた男は、ひとつ大きく伸びをし、光を浴びながら息を吐いた。


 その男こそ――聖アストリア帝国の「帝国の剣」と称される、帝国騎士団団長ロロイ=カルベルトである。


「気持ちのいい朝だな」

 呟くように言って、彼は軽く体をほぐすと、再び宿舎の中へ戻った。

 いつもの鎧を身にまとい、帯剣を確かめる。

 ――今日も、いつも通りの一日が始まる。


 皇帝への朝の謁見。それがロロイ=カルベルトの日課だった。

 場内の渡り廊下を歩けば、季節の変わり目を肌で感じる。

 春の柔らかさは去り、夏の残暑が城壁を焦がしはじめている。

 鎧の中で、じっとりと汗が滲んだ。


 玉座の部屋の前に立つと、ロロイは鎧の紐を正し、咳払いを一つ。

 重厚な扉を拳で叩く。


「入れ」

 低く、威厳に満ちた声が中から響く。

「失礼いたします」

 扉を開けると、豪華な玉座に男が座っていた。

 カルライ=アストリア。聖アストリア帝国第三十二代皇帝。


 その体躯は堂々としており、手入れの行き届いた髭が威厳を際立たせている。

 背後の大窓から射す朝日が、金の装飾を照らし、まるで後光のように彼を包んでいた。

「カルライ陛下。本日も良いお日柄で」

 ロロイが頭を下げかけた瞬間、皇帝の低い声がそれを遮った。


「社交辞令はよい。ここには我ら二人しかおらぬ」

 皇帝はゆっくりと玉座から立ち上がり、窓の外に視線を向ける。

「それより――話すべきことがある。」

 沈黙が走る。

「……言わずとも、分かるな?」

 ロロイは一瞬、息を飲んだ。

 そして静かに頷く。


「……はい。各地で、悪魔の被害が報告されている件ですね」

「その通りだ」

 カルライの声が、まるで城壁に反響するように響いた。

「千年前、《パンドラ》が戦った――あの悪魔どもだ。」

 二人のあいだに、短い沈黙が流れた――。


 その静寂を破るように、扉を叩く音が響く。

 コン、コン。

「陛下、お伝えしたいことがございます!」

 扉の向こうから、若い騎士の声。

 謁見の最中に……無礼なやつだ。


「よい、入れ」

 カルライが低く言う。

 ガチャリ。

「失礼いたします。陛下、それにロロイ団長殿。謁見の最中に申し訳ありません!」

 入ってきたのは、一人の若い騎士だった。

 クリウス=ヘール。

 半年ほど前にその腕を見込まれ、帝国騎士団に見習いとして配属された男だ。

 緊張のあまり、こめかみに冷や汗が光る。

 無理もない。皇帝と団長の会話を遮るなど、常識では考えられぬ失態だ。


「……お前には休暇を与えていたはずだ。なぜ、今ここにいる?」

 ロロイが問いただす。

「そ、それが……信じがたい話なのですが……」

 クリウスはしどろもどろに言葉を探す。

 その様子に、カルライが苛立ちを見せた。

「早く申せ。私と団長の謁見を妨げた以上、それ相応の理由があるのだろうな?」


 ――空気が変わった。

 カルライの威圧が、部屋中を支配する。

 聖アストリアの皇帝が代々発現する固有魔法。

 《エンペラー・グレア(皇帝の風格)》。

 それは無意識のうちに放たれる“王者の威”。

 抑えようとしても制御できず、彼の前に立つ者は誰であれ、足がすくむ。

 ――この私でさえ。


「お、おそれながら申し上げます……」

 クリウスの声が震える。

「《パンドラ》の団員を……連れて参りました。」

 沈黙が、場を凍らせた。

「……くくっ」

 低く、笑い声が漏れる。

 やがてそれは、豪快な笑いに変わった。

「そうか……はははははは!」

 普段はあまり笑わない皇帝が、大口を開けて笑う。


 だが、次の瞬間、その表情が一変する。

 怒りに満ちた声が、部屋中に轟いた。

「貴様……このカルライ=アストリアに冗談を言うためだけに、謁見を乱したのか!!!」

 圧がさらに強くなる。

 空気が震え、大理石の床石がかすかに軋んだ。

 それでもクリウスは膝をつきながらも、頭を下げたまま声を絞り出す。

 大した胆力だ。

「陛下……信じがたいのは承知の上です。しかし、これは真実なのです!」

 息を荒げ、彼は言葉を続けた。

「“炎の魔神”が――まだ、生きておられました!」

 ロロイは息を呑んだ。

 嘘だと思った。

 いや、“ありえない”と言うべきか。

 千年前の伝説の組織、《パンドラ》。

 彼らが滅びたのは、確かに歴史に刻まれている。

 だが――彼らの異能が常識を超えていたのも、また事実。

 (もしそれが本当なら……?)

「陛下」

 ロロイは一歩進み出て、静かに進言する。

「少し、彼の話をお聞きになってはいかがでしょう。」


 カルライは短く息を吐き、しばし沈黙した。

 やがて、重々しく頷く。

「……よかろう。だが――もし、もしも嘘であったならば、勇敢なる騎士よ」

 その瞳がクリウスを射抜く。

「お前の首が飛ぶと思え。」

 クリウスは震える唇で、それでもはっきりと答えた。

「ええ……その覚悟です。」

 皇帝は静かに微笑み、そして低く笑い声を漏らす。

「よかろう。――して、その者はどこにいる?」


トン、トン——。

静まり返った部屋に、再び扉を叩く音が響いた。

カルライとロロイは同時に顔を上げる。

ゆっくりと扉が開き、そこには見慣れぬ青年が立っていた。

「ご紹介にあずかりました。」

低く、落ち着いた声。


男はゆっくりと顔を上げ、その瞳に炎のような光を宿していた。

「《パンドラ》団員——リート=ジンと申します」

リートは面白そうに笑っていた。

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