第2話

 翌朝、学校に着くと、麻衣と田中が昇降口で抱き合っていた。


 周りのクラスメイトが「お熱いねー」とか「爆発しろ」とか騒いでいる。


 俺は目を逸らして、足早に教室へ向かった。胸が締め付けられる。でも、昨日よりはマシだ。ハルの言葉が、少しだけ俺を支えてくれている。


 教室に入ると、いつもの席に座る。


 窓際の一番後ろ。俺の隣の席には、夢野遥という女子がいる。


 地味で、無口で、いつも本を読んでいる子だ。クラスでもほとんど話さない。というか、話しかけられることもない。俺も今まで一度も会話したことがなかった。


 今日も遥は、文庫本を開いたまま俯いている。黒髪のストレートが顔を半分隠していて、表情がよく見えない。


 ふと、何かが引っかかった。


 彼女の持っている本のタイトル。それは、ハルが以前の配信で「最近読んでる」と紹介していたものと同じだった。


 まさかな、と思いながら、俺は席に座った。


 授業が始まる。


 でも、集中できない。視線が何度も隣の遥に向いてしまう。


 髪の色、違うし。雰囲気も全然違う。


 ハルはもっと明るくて、ふわふわしてて——


「……あの」


 突然、遥が小さな声で話しかけてきた。


 顔を上げると、彼女は真っ赤な顔で俯いている。


「昨日、ありがとう……ございました」


 その声を聞いた瞬間、背筋が凍った。


 低めで、落ち着いていて、でも少しだけ震えている。


 これ、ハルの声だ。


「え……まさか」


「……バレちゃいましたね」


 遥は顔を上げた。黒縁の眼鏡の奥に、少しだけ潤んだ瞳が見える。


「私、ユメノ=ハル……です」


 心臓が跳ねた。


「嘘だろ……」


「ごめんなさい。リスナーさんに正体を明かすのは、規約違反だって分かってるんですけど」


 遥は俯いたまま、小さく続けた。


「柏木くんのコメント、ずっと見てました。いつも優しくて、的確で……私、柏木くんのコメントが来るの、すごく楽しみだったんです」


 頭が真っ白になる。


 推しが、同じクラスにいた。


 しかも、俺のことを「楽しみ」だと言ってくれている。


「だから、昨日のコメント見て……放っておけなくて」


 遥は眼鏡を外して、目元を拭った。


「ごめんなさい。変なこと言って。忘れてください」


「待って」


 俺は咄嗟に遥の手首を掴んだ。


 彼女の細い手首。冷たくて、少しだけ震えている。


「忘れるわけないだろ。お前、俺を救ってくれたんだぞ」


 遥が驚いたように顔を上げる。


 近くで見ると、彼女の瞳は透き通るような灰色だった。眼鏡を外した素顔は、思っていたよりずっと整っている。


「俺、ハルちゃん……じゃなくて、夢野さんのこと、もっと知りたい」


 そう言うと、遥の顔が真っ赤に染まった。


「……はい」


 小さく、でもはっきりと、彼女は頷いた。


 それから、俺と遥の距離は一気に縮まった。


 昼休みは一緒に屋上で弁当を食べるようになった。放課後は図書室で並んで本を読んだ。遥は俺に、配信では話せない「中の人」としての悩みを打ち明けてくれた。


「リスナーさんたちには、明るくて元気なハルでいたいんです。でも、本当の私は……こんな地味で、暗くて」


「そんなことない」


 俺は即座に否定した。


「お前の優しさも、気遣いも、全部本物だろ。配信で見せてるハルも、今ここにいる夢野さんも、どっちも本当のお前だよ」


 遥は目を見開いて、それから微笑んだ。


「……ありがとうございます」


 その笑顔を見た瞬間、俺の中で何かが決定的に変わった。


 これは、もう推しとリスナーの関係じゃない。


 俺は、夢野遥という一人の女の子に、恋をしている。


 ある日の放課後、廊下で麻衣とすれ違った。


 彼女は田中と腕を組んで歩いている。俺の姿を見ても、特に反応はなかった。


 でも、俺ももう何も感じなかった。


 振り返れば、遥が少し離れた場所で待っていてくれる。それだけで、胸が温かくなる。


「柏木くん、行きましょう」


 遥が小さく手を振る。


「ああ」


 俺は遥の元へ駆け寄った。

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