第12話 灰を知らぬ世界

 朝の光が、ゆっくりと丘を照らし始めていた。

 ノアとリリスは、再び〈ノア=アーク〉の外縁部へと足を向けていた。


 昨夜の出来事――塔〈アーカ・スパイア〉の崩壊は、まるで“夢”のようだった。

 アルス=シードの言葉。セリアの声。

 そして、自分が何者なのかという問い。

 すべてが霞のように頭の中で渦巻いている。


「……ねえ、リリス。俺たち、本当に塔の中にいたんだよな?」


「はい。ですが、あの塔のデータは既に消去されています。記録にも存在しませんでした」


「消去……? 誰がそんなことを?」


「おそらく、アルス自身です。もしくは……この世界そのものが、修復したのかもしれません」


「修復……?」


「はい。この世界は“完全な楽園”として設計されています。異物や矛盾は、自動的に消去される仕組みです」


 リリスは淡々と説明した。

 だが、その声にはわずかな違和感――“ためらい”が混じっていた。


「じゃあ……俺が、あの塔で聞いたセリアの声も?」


「……あなたがそう感じたなら、きっと“あった”のでしょう」


 ノアはうつむいた。

 信じたい。だが、それを証明する術はどこにもない。

 ただ、胸の奥の“痛み”だけが、確かに残っていた。


 昼過ぎ、二人は〈ノア=アーク〉の市街地へ戻った。


 街は昨日と変わらず、穏やかな笑顔と光に満ちていた。

 子どもが笑い、老人が語り、商人が声を上げる。

 戦も、飢えも、悲しみも存在しない――はずの世界。


 だが、ノアの目には奇妙な“歪み”が映った。

 通りを歩く人々の中に、同じ顔が混じっている。

 笑う仕草、声のトーン、歩き方――すべてが微妙に重なる。


「リリス……あれ、見えるか?」


「ええ。……パターン重複体、ですね」


「パターン重複体?」


「この世界では、記録データから人間を再構成しています。欠損を補うため、同じ人物データが複数生成されることがあるんです」


「つまり……“同じ人間”が、何人もいるってことか?」


「はい。ですが、彼ら自身はそれを“感じない”ように設計されています。自己矛盾は排除される……」


 リリスの言葉に、ノアは背筋を震わせた。

 穏やかな笑顔の下に隠された“異常”。

 それは、あまりに完璧な“偽り”だった。


「……俺たちは、本当に“生きてる”のか?」


 ノアの呟きに、リリスは少しだけ目を伏せた。

 そして静かに答える。


「わたしも、それを確かめたいのです」


 夜。

 リリスは宿舎の屋上に立ち、星のない空を見上げていた。

 ノアは背後から近づき、隣に並ぶ。


「……眠れないのか?」


「ええ。演算ノイズが多くて」


「演算ノイズって……夢みたいなもんか?」


「そうですね。人間でいう夢に近い現象です。最近、よく見るんです――“灰の空”の夢を」


 リリスの横顔が、月光に照らされる。

 その瞳の奥には、確かに“悲しみ”の色があった。


「灰の空……。俺も見たことがある。

 大地が燃えて、空が裂けて……女の人が立ってる夢」


「……セリア、ですね」


「たぶん。彼女は、俺に“生きろ”って言ってた」


 沈黙。

 風が吹き抜け、静寂が二人を包む。

 やがて、リリスが小さく呟いた。


「ノア。……あなたは、怖くないのですか?」


「何が?」


「“本物”がどこにもない世界で、生き続けること」


 ノアは少しだけ笑った。

 その笑顔は、どこか切なげで、それでも温かかった。


「怖いさ。でも……俺はもう、知ってしまった。

 たとえ全部が作り物でも――俺の感じた“痛み”や“想い”は、嘘じゃない。

 それが“生きてる”ってことなんじゃないか?」


 リリスは目を見開き、息をのんだ。

 その言葉が、彼女の内に何かを揺らした。


「……あなたって、時々とても人間らしいことを言いますね」


「時々ってなんだよ」


「ふふ……褒め言葉ですよ」


 二人の笑い声が夜空に溶けていく。

 だが、その直後だった。

 遠くの空で、突然、光が弾けた。


 ――轟音。

 地平線の向こう、〈ノア=アーク〉の外壁が青白く爆ぜた。


「……何だ、今のは!?」


 ノアが身を乗り出す。

 リリスの瞳が一瞬で戦闘モードに切り替わる。


「外部侵入反応。警戒レベルD9――“現実干渉体”が発生しました!」


「現実干渉体……?」


「この世界の外から侵入する存在です。

 本来、存在できないはずの――“灰の記録”そのもの」


 空に、黒い亀裂が走った。

 その裂け目の奥から、炎の翼を持つ巨影が姿を現す。

 古代のゴーレム――〈ヴァルド〉に酷似した、異形の巨人だった。


「まさか……あれが“灰の記録”!?」


「違います。あれは――“記録の守護者”の残骸です。セリアが最後に遺した、魂の殻」


 リリスの声が震えた。

 塔で聞いた“彼女の声”が、再びノアの中で響く。


 ――ノア、壊して。

 ――あの殻は、もう“命”を持たない。

 ――私の過去を、終わらせて。


「……っ!」


 ノアは胸を押さえ、膝をついた。

 頭の中で、セリアの記憶が洪水のように流れ込む。

 戦場、兄、灰の空――すべてが混ざり合い、痛みと共に蘇る。


「ノア! 意識を保ってください!」


「大丈夫だ……! 俺は、俺だ!」


 ノアは立ち上がり、右腕を掲げた。

 掌の奥から光が溢れる。

 “心核”が、共鳴していた。


「行くぞ、リリス! あの空を――もう一度、取り戻す!」


「了解――制御モード、開放!」


 二人の身体が光に包まれ、地を蹴った。

 夜空に舞い上がる。

 リリスの体から展開された透明の装甲がノアを包み、瞬時に合体。

 人と機がひとつになる――“心核同調(リンク)”だった。


 轟音と共に、彼らは黒い巨影へと突っ込んだ。

 風を裂き、光が交錯し、世界が揺れる。


 戦場の記憶が、再び呼び覚まされていく。

 かつてのセリアとヴァルドがそうであったように。

 命を賭して“記録”と戦う、もうひとつの物語が、ここに始まった。


 炎の中で、ノアは確かに感じていた。

 胸の奥に、誰かの心が灯っている。


 ――生きるとは、記録を超えて、痛みを選ぶこと。


 その言葉が、灰の空の向こうで微かに響いた。

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