第6話 奇跡の平和
国境の街テラスを抜けて、東の山道をのんびり歩く俺――クロノ・ルミナスは、ようやくエメラルド・レイクが見える辺りまで来ていた。
湖面が陽光を反射して、まるで宝石みたいにきらめいている。
……が、俺の顔はどこか不満げだった。
「ったく、せっかく観光気分だったのに、また厄介ごとの匂いかよ」
思わずため息が漏れる。
さっきすれ違った行商人たちの会話が、耳から離れない。
『あの山道は通れねぇよ。牙の魔獣が山賊どもと手ぇ組んで、通行止めだってさ』
『湖畔の村も閑古鳥だよ。勇者様でも来なきゃどうにもならん』
「勇者様ねぇ……。いやもう、それ俺やってた頃の話だろ」
ぼやきながらも足を進める。
道の脇には紅葉しかけた木々が並び、風が優しく吹き抜けていく。
いい風景だ。
ただ――平和じゃない。
「戦闘イベントなんて、スローライフの趣旨に反するんだよな。俺の理想は“食って寝て温泉”だから」
そう言って肩をすくめる。
だがこの辺りは、魔物と山賊のせいで通行が絶えているらしい。
なら――平和にすればいい。戦わずに、だ。
「……よし、平和になってくれ」
願うように呟いた瞬間、分岐点のそばに小さな石のトーテムが目に入った。
古びているが、表面には見覚えのある魔力痕が残っている。
「これ、俺が昔……勇者パーティの目印に作ったやつと似てるな」
懐かしさに惹かれて、無意識に手を当てた。
「頼むから、誰も戦わなくて済むように。この道が、平和になりますように」
ただのおまじないのつもりだった。
けれど、その瞬間――
影が淡く揺らめき、俺の中の【影の力】が微かに反応した。
『――平和な環境の最適化を要請します。実行』
「……おいおい、今の音、気のせいだよな?」
軽く首をかしげつつ、俺は深く考えずに歩き出した。
どうせ何も起きやしない。……そう思っていた。
――だがその頃。
場所は変わって、山中のアジト。
粗末な木造小屋の中で、山賊の頭ドレッグが怒声を上げていた。
「おい、牙! どうした、いつもみたいに吠えろよ!」
契約魔獣――牙の魔獣(ファングビースト)。
その全身は黒鋼のような毛並みで覆われ、血のように赤い瞳を持つ凶暴な獣。
……だった、はずだ。
だが今、その魔獣は静かに座り込み、まるで老犬のように尻尾を丸めている。
「グゥ……ン……」
唸り声さえ、妙に穏やかだ。
「ま、まさか病気か!? おい、肉だ、ほら! 食えよ!」
ドレッグが投げた肉片を、魔獣は見向きもしない。
代わりに、ゆっくりと首を傾げ――悲しそうな目をした。
「ふざけるな! 襲え! 命令だぞ!」
鞭を振り上げる。
だが魔獣は避けず、むしろそのまま鞭を受け、静かにドレッグを見つめ返した。
その瞳には――怒りではなく、哀れみがあった。
「……な、なんだその目は。まさか……裏切ったのか……?」
ドレッグの背に冷や汗が伝う。
彼らが交易路を支配できたのは、この魔獣の暴力があったからだ。
だが今や、牙はその力を失い――いや、捨てた。
そう気づいた瞬間だった。
「ドレッグ! 外に人影が――!」
見張りの声と同時に、外から怒号が響く。
「山賊だ! 囲め!」
現れたのは、テラスから来た地元の自警団だった。
恐る恐る様子を見に来ただけの彼らは、思いがけず“抵抗しない山賊たち”に遭遇したのだ。
「な、なんだ……魔獣がいねぇ!?」 「今がチャンスだ! 突入!」
混乱する山賊。
暴れない魔獣。
そして、力を失った頭目ドレッグ。
「ち、ちくしょう……牙ァ! お前がいれば……!」
ドレッグが最後に見たのは、森の奥へと静かに歩いていく魔獣の背中だった。
――もう、ただの大きな動物にしか見えなかった。
その頃、俺はと言えば。
「おおっ……これだ、これ!」
エメラルド・レイク到着。
透き通る湖面、花咲く木々、そして屋台から漂う焼き魚の匂い。
完璧な観光地だ。
思わず深呼吸して、胸いっぱいに空気を吸い込む。
「うん、勇者時代じゃこんな景色、まともに見る余裕なかったもんなぁ」
ふと、村の方から賑やかな声が上がった。
「よかった! これで交易が再開できるぞ!」
「奇跡だ! 牙の魔獣が急におとなしくなったんだ!」
「……ん? 奇跡?」
気になって近づくと、村人たちが集まって大騒ぎしていた。
中央には、白髪の老人が嬉しそうに両手を振っている。
「おお、旅の方! 聞いてください! 昨日まで凶暴だった牙の魔獣が、急に穏やかな“でっかいワンちゃん”になったんですよ!」
「ワンちゃん……?」
「ええ! 山賊たちは抵抗もできずに自警団に捕まって、みんな助かったんです! まるで神様が助けてくださったみたいに!」
「へぇ……そりゃ、すごい偶然ですねぇ」
俺は苦笑いしながら相槌を打つ。
心のどこかで「……偶然、なのか?」と思いつつも。
「きっとどなたか心優しい旅人様が、神にお祈りをしてくださったんですよ!」
老人は空を仰ぎ、両手を合わせた。
「うわー……そんな立派な人がいるなら、ぜひ紹介してほしいなぁ。俺もお祈りしたいくらいですよ」
冗談めかして言うと、老人は感極まったように俺の手を握った。
「旅の方、これを受け取ってください! 湖名産のシロップです!」
「え、いいんですか? ありがとうございます!」
渡された瓶を受け取り、光にかざす。
黄金色の液体が、湖面のようにきらめいていた。
「よーし、甘いものゲット。……うん、これで今日も平和だ」
俺は湖畔のベンチに腰を下ろし、波紋を眺めながら口笛を吹いた。
風は穏やかで、どこまでも心地よい。
知らぬ間に起きた“奇跡”も、俺にとってはただの旅のワンシーン。
けれど――その小さな願いは確かに世界を動かし、誰かの笑顔を生んでいた。
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