祈りのアベ・マリア

音野彼方

前奏曲

 ――いつの間にか忘れていた、この音色。

 うれしい日も、悲しい夜も。

 どんな瞬間でも寄り添って、一緒に奏でてくれるのが当たり前だった。


 入院生活の中、鉛のように重たい体をベッドに沈めていたとき。

 どこからか聴こえてきた、ドビュッシーの《月の光》。

 その柔らかな旋律に包まれると、不思議と息がしやすくなり、まどろみへと落ちていく。


 ――私、やっぱりピアノの音、好き。


 すっと心に沁みてくる、この演奏。

 弾いているのは、……誰?


       ❋❋❋


 ――誰の隣にも居場所を感じたことはない。

 けれど、この存在だけは変わらずここにある。


 祖父に頼まれて始めたホスピタルピアノのボランティア。

 なぜ自分が?そんな気持ちのまま、気づけば鍵盤に向かい続けていた。


 誰に届かなくてもいい。ピアノの前にいるときだけは、自分が自分でいられる気がする。


 でも、ちょっとだけ思っている。

 この音が、誰かに届いていたら―― 

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