27:夜を駆ける





「ああ、どうしよう。どうしよう」


 ついに思いを伝えてしまった。恐るべき解放感、恐るべき羞恥、そして恐るべき恐怖が同時に月奈を襲っていた。


「やっちゃった……」


 今は苺はすうすうと眠り、月奈はそのそばに座っている。痺れるほどの愛らしい寝顔――月奈には苺のすべてが魅力的に見えてしまう。いったいどうしてこうなってしまったのだろう。だが、思えば最初から一目ぼれしていたのかもしれない。そもそも苺を助け、匿った理由もこれまで分かっていなかったのである。最初から好きだったというのなら、そのすべてに説明が付く。


 月奈には今、ひとつの達成感があった。枷がひとつ外れたような感覚だった。もっとも、まだ安心はしていない。苺は大好きだといったが、それはまだ自分を女として見た気持ちだとは限らない。なんとももどかしい。月奈も苺も恋愛をしらない初心な女の子である。これで2人は恋人同士になりました、めでたしめでたし――とするにはまだ色々な壁があった。


「それでも、私は――」


 自分の気持ちに嘘は吐けない。それが破滅的な結果に終わろうとも、思いを伝えないまま悶々としたものを抱き続けることはできない。もしそうすれば、苺との生活は地獄のようになっていただろう。


 月奈は幸福に包まれている。苺と一緒にいられる幸せ、思いを伝えきった幸せ。これが恋というのなら、確かに素晴らしいものなのだろう。月奈がこれまで抱いてきた、ひとりで生きていくという気持ちは粉々に破壊されていた。とてもいい気分である。


「でも、苺の弱みにつけこんだような気もしないではないけど」


 それに苺は優しいから、月奈を傷付けないためにああ言ったのかもしれない。


 いずれにせよ、明日からはこれまでの関係ではいられないだろう。月奈に求められたのは覚悟を決めることだった。保護者としてと同時に、恋人として苺を守る。そのことに月奈はわくわくしていた。人生の意味がひとつ増えた。それはとても素晴らしいことだった。


「さて……私も寝ようかしら」


 ひょっとしたら興奮して寝られないかもしれないが。ともあれ、彼女は自室に戻った。



        ◇



 案の定、月奈はまったく眠れずに一夜を過ごした。すっかり気持ちが漲って、安楽することはなく、ルナティカンを狩る時とはまた違った高揚が収まらない。眠気もまったくない。時間を置けば治まるだろうだろうと思っていたが、その気持ちはますます膨れ上がるままだった。


 仕方がないのでまだ陽が昇る前から月奈は起き出して、朝食の準備を始めた。いつものようにたいようテレビを点け、料理に集中するつもりがやっぱり煩悩がそれを邪魔してしまう。甘い気持ちが溢れ続ける。すべてが輝いて見える。それはまったく新しい世界だった。月奈はその門をくぐった。彼女の失われた青春が、今まさに始まったのかもしれない。


 ただ、罪悪感がないわけでもなかった。相手が普通に異性であるのならば、ここまで惑うことはなかったと思う。しかし恋の相手は同性で、しかも子供である。いくらなんでもアブノーマルすぎる。だがそれゆえにこそ月奈は恋を知らなかったのかもしれない。そういった変態性癖が、苺の登場によって花開いたのかも。


 たいようテレビでは天気予報をやっている。今日は朝から夜までずっと快晴らしい。


 朝食を作り終えると月奈はコーヒーを淹れてソファに座り、くつろいだ。そうこうしている内に苺が起きてきた。リビングの扉が開くと、月奈の心臓がばくんと跳ねた、昨日の今日でどういった表情をすればいいのか、月奈にはまだその覚悟がなかった。


「おはよ~う……

「あ、あああああおはようおはよういちご、おはようおはよう!」


 月奈にとっては、苺がそこにいるだけで心を乱す要因になるのだった。いっぽう、苺はまったく動じていない。月奈の告白の意味を分かっていないのか、それとも分かった上でこうなのか。


 苺はくすくすと笑った。


「月奈、かわいい」

「え、ええ、苺のほうがかわいいよっ」

「じゃあどっちもかわいいってことでいいね」


 その姿があまりに愛らしかったので月奈は苺を抱き締めずにはいられなかった。苺は拒まなかった。


 月奈は明らかに暴走していて、しかし苺はそれをゆったりと受け入れていたのだった。



        ◇



 その日は当然のように苺を学校に送り迎えた。月奈の頭には苺のことでいっぱいだった。この気持ちが冷めることがあるのだろうかとふと考えた――しかし、その兆候はまったくない。2人で過ごすほどに、愛が深まっているような気がした。これが自分の一人相撲ではないかと危惧しないでもなかったが、ひとたび苺の笑顔を見るとそんな不安も雲散霧消するのだった。


 月奈は苺との時間を大事に、これまで以上に大事にしようと思った。


 ふと思ったのは、自分が苺に惚れたのは、彼女が少女だから――つまり、自分が真性のロリコンなのではないかという疑惑だった。苺は成長する。いつまでも少女ではいられない。その時になって、私は果たして今の愛を維持できるのだろうか?


 まあ、その時はその時に考えればいいと思った。月奈は良くも悪くも単純だったのである。


 そうやってその日は早めに帰り、月奈は夕ご飯の準備をしていて、苺はソファでマンガを読みながらくつろいでいた。


 その時である。不意に月奈のスマホに着信があった。いよいよ苺との2人きりの団欒というところを邪魔されて月奈は不満いっぱいだった。だがその発信元は宇田だった。とすればそれは無視できない。恋に溺れて自分の仕事を忘れる訳にはいかないからだ。


「浪川区で暴動の発生を確認した。きみに鎮圧を頼む」


 夕食のクリームシチューの調理を終えて、月奈は苺に向き合った。


「おしごとなの?」

「ええ、すぐに片付けてくるわ。それまでいい子にして待っていてね」

「いってらっしゃい……」


 苺は沈んだ顔でバルコニーから飛び立つ月奈を見送った。その時は、彼女がそんな顔をしていたのは少し別れる時間が不意にできたからだと簡単に思っていた。


 しかしそうではなかった。


 暴動を簡単に鎮圧して(といえば聞こえはいいが、要は皆殺しである)、月奈はすぐさま愛する彼女のいる家に舞い戻った。血の臭いも気にならなかった――だがそれがデリカシーのなかったことに気付くのにそう時間はいらなかった。


「ただいま。待たせちゃったね」


 月奈としてはいつもの仕事をこなしてきた、というくらいの気持ちでしかなかった。だが家に帰ると、苺は膝をかかえて震えていた。月奈は吃驚仰天した。なにか身体を悪くしたのかと思った。


「え、苺、いちご、大丈夫!?」


 月奈は苺に駆け寄った。しかし苺は月奈から離れてしまった。


「だめ、その臭い、ダメ……」

「臭い?」

「その、血の臭いが……」


 苺の気分はますます悪くなっているようだった。月奈は慌てて自分の服を脱ぎ、洗濯機に放り込んでから着替えた。それからまた苺の寄り添った。少女は今度は拒絶しなかったが、気分が悪そうなところは変わっていなかった。


「どうしたの……?」

「最初はどうってことなかったの……でも、ひとりになると、月奈が戦っているって考えると、パパとママが殺されたことを思い出して……」

「……そういうこと」


 月奈は得心がいった。苺の心にはまだトラウマが残っているのだ――それを消し去ることは不可能だった。そして、自分が血に塗れた、呪われた女であることを突き付けられ、当惑した。


 そんな苺にできることはなにかあるのか。


 月奈は苺が落ち着くまで寄り添った。


「月奈はいつまでもあたしと一緒にいてくれる?」


 苺は言った。


「もちろんよ。絶対に、私はあなたを独りにはしない」

「月奈は死なない?」

「私は誰にも殺されない。私は最強だから」

「ホントに?」


 月奈は苺をぎゅっと抱き締めた。苺は少し落ち着いたようだったが、それでもまだ青ざめた顔は残っていた。


 ふと、月奈にとあるアイディアが閃いた。彼女もひとだから、常に悠然としていられる訳ではなかった。時には気持ちが沈んだり、カリカリすることもあった。そんな時のストレス解消方法を苺にも試そうと思ったのだ。


「苺、こっちに来て」

「どうしたの?」


 月奈は苺の素朴な問いには答えず、そのままバルコニーに導いた。それから彼女を抱いて――そのまま夜空に駆け出した。


 空を駆けるのはすべてを忘れさせてくれる。眼下に広がった街の灯りが眩しい。


「うわあ!」


 苺は月奈に抱かれたまま感嘆の声を上げた。この力がもたらした最も幸福なものである。


「すごいすごい! あたし、飛んでる!」

「それだけじゃないわよ」


 そして、月奈は苺に自分のとっておきの場所を紹介した。この街で一番高い建造物――宇浪野タワーの天辺である。そこからは市の夜景が一望できる。おだやかな内海の光景もよく見える。海には貨物船やタンカーが往来している。この光景を見ていると何故だか自分の心が大きくなり、穏やかになっていくのだ。なにも考えなくていい時間――


「きれいだね……」


 その効果は苺にも効いているようだった。風が苺の長髪を撫でた。寒さもまったく気にならなかった。


 自分の秘密の場所に彼女といる。それはとても特別なことだった。気持ちの大きくなった月奈はなんでもできるような気がした。なにより、自分を苺のためだけの存在にすることを望んだ。


 狭いタワーの突起に座り、しばらくそのままで幸せな時間を過ごした。苺の焦燥もすっかり収まり、とても穏やかな顔になっていた。


 この時をおいてほかはない。


「苺、こっち向いて」

「なぁに、月奈――」


 月奈は振り向いた苺の頬をそっとつかみ、それからその桃色の唇にキスをした。


「……んぅ」


 苺はその接吻を驚くほど素直に受け入れた。月奈にしても大きな冒険だったが、このロマンティックな光景がそうさせたのだ。


 それから、自分がしでかしたとんでもないことに自分で動転した。ああ、やってしまった。なんと罪深いことを……しかしいつかはこんな時が来るとも思っていた。月奈は苺のことを欲した。そう、そのすべてを。


「ご、ゴメン苺。こんなことして、気持ち悪かったよね……」


 罪悪感丸出しで月奈は言ったが、苺は微笑しながら首を横に振った。


「ううん、嬉しいよ。気持ち悪くなんかない。気持ちよかったよ。だって月奈のキスだもん」

「月奈……」

「だってもう、あたしたち、ソーシソーアイでしょ?」


 なんの屈託もない笑顔で苺はそう言った。月奈は天にも昇る気持ちだった。


 そして、この夜の疾駆は2人にとってかけがえのない。そして決定的な仲になった特別な思い出となったのである。

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