異世界宿場町の居酒屋「こはる亭」

らた

第1章:はじまりの焚き火

第1話 焚き火の夜に

ぱち、ぱち、と小枝のはぜる音が、静かな夜に溶けていった。

 目を開けると、暗い森の中。月明かりがわずかに差し込んで、周囲をぼんやり照らしている。


 ……ここ、どこだ。


 冷たい地面に背中が張り付いて、じんわりと体温が奪われていく。

 薄手のジャージが湿って、土の匂いが鼻にまとわりついた。

 袖口には焦げの跡、指の甲には小さな火傷の痕がいくつもある。


 最後に覚えているのは、店を閉めたあと。

 油の匂いが残る居酒屋の厨房で、フライヤーを片付けていた。

 深夜二時。冷蔵庫のモーター音がやけに響いていた。

 外に出て、空を見上げた――そこまでは確かに覚えている。


 息を吐くと、白い煙が上がった。冷気が肌を刺す。

 体を起こすと、目の前に小さな焚き火が燃えていた。

 その向こう側で、誰かがこちらを見ている。


 ――少女だった。

 年の頃は十代半ば。ボロボロのマントを羽織り、頬はうっすらと汚れている。

 けれど、瞳だけが真っ直ぐで、焚き火の光を映していた。


「……目、覚めた?」


 かすれた声。

 俺は反射的に答える。


「ああ……ここは?」


「トーラの森。あなた、倒れてたの。通りがかりで見つけた」


 トーラ? 聞いたことのない地名だ。

 日本語が通じていることだけが、奇跡のように思えた。


 少女の手には、少し焦げた魚が刺さった枝が握られていた。

 焚き火の上で、油がじゅっと音を立てている。

 その香りに、腹が鳴った。

 ああ、腹の音なんて、久しぶりに聞いた気がする。


「……お腹、すいてるみたいね」


「まあ、否定はできないな」


「焦げてるけど、食べる?」


「ああ、助かる」


 受け取った魚は、見たことのない種類だった。

 皮は銀色に近く、ところどころに青い斑点が浮かんでいる。

 だが、匂いは悪くない。むしろ、どこか懐かしい。


 ひと口かじった。

 少し焦げた苦みが、かえって香ばしい。

 脂の乗りは弱いが、焚き火の風味がうまく調和していた。

 胸の奥まで温かさが広がる。


「……うまいな」


「ほんと? 焦がしちゃったと思ったけど」


「焦げも味のうちさ」


 少女が少しだけ笑った。

 その笑顔に、なぜか胸が軽くなる。


「そういえば、名前は?」


「俺か? 浩介。佐藤浩介」


「リリア。冒険者……まだ見習いだけど」


「なるほど、リリアか。助かったよ」


「ううん。助けたってほどじゃないし」


 リリアが照れくさそうに笑った。

 その笑顔が、焚き火よりも暖かく感じた。


「冒険者って、どんな仕事なんだ?」


「んーとね。魔物退治とか護衛とか、素材集めとか……いろいろ。危ないけど、やりがいはあるよ」


「……そりゃ命がけだな」


「そうでもないよ。慣れたら案外なんとかなる」


「はは、強いな。俺には真似できそうにない」


「浩介は何してた人なの?」


「俺か? 居酒屋で料理してた。飯を作る仕事だよ」


「イザカヤ? ……お店の名前?」


「そんな感じだ。腹を空かせた奴が集まる場所だ」


「それ、いいね。私もそこに行ってみたいな」


 焚き火の火がぱちりと弾ける。

 油と木の香りが混ざり合って、どこか懐かしい匂いがした。


「焦げても、焼きすぎても……生きてれば、なんとかなるでしょ」


「ずいぶん前向きな考え方だな」


「稼がなくちゃ、どの道生きてけないしね」


 リリアの声には、年齢に似合わない落ち着きがあった。

 焚き火の光が彼女の横顔を照らし、影が頬をなぞる。


 魚の骨を火にくべながら、俺は空を見上げた。

 見知らぬ星々が、ゆっくりと瞬いている。


 ――どうやら、異世界らしい。

 でも、不思議と怖くはなかった。

 焚き火の匂いが、妙に懐かしかったからかもしれない。

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