第10話 月美デビュー:前編
(今日から俺、月美として学校に行くのか……)
朝、鏡の前で美月は、女性の制服を身にまとった月美の姿を見つめていた。美桜から教わったメイク、学校から支給された制服、すべてが完璧に見える。
最初は胸の膨らみを作るブラジャーの感触、スカートの重み、すべてが不思議な感覚だった。でも一ヶ月の地獄の特訓を経て気にならなくなっていた。慣れって怖い。
(男は度胸だ)
月美姿の美月、いや「月美」は深呼吸をして、家を出た。
男子校なのに女子が校門に入ってくるので、自然と視線が集まる。すごく集まる。息苦しい。でも我慢だ。
月美は打ち合わせ通り職員室にまずは直行する。
周りに生徒がいないことを確認するとふっと気を緩める。
「はー、お前化けたなぁ」
桐原先生が感心したように言う。
「人を化け物のように言わんでください」
月美が小声で文句を言うと、桐原先生は苦笑いした。
月美は桐原先生と、月美のクラスメイトへの紹介に関する最後の確認をするのだった。
◆
いよいよ時間が迫る。
教室の前で月美は立ち止まった。ドアの向こうで、クラスメートたちの喧騒が聞こえる。
美月の机の上には、まだ美月の教科書が残っている。「体調不良で休み」という設定になっているからだ。
「皆さん、おはよう」
今回の共犯である桐原先生がクラスメイトに挨拶をした。
「さて。今日から転校生が加わることになった。入ってきなさい」
月美は深呼吸をして、ドアをノックした。
「失礼します」
月美は腹をくくって教室へと足を踏み入れた。
教室に入った瞬間、時が止まったような静寂が訪れた。
男子生徒たちの視線が一斉に月美に向けられる。驚き、困惑、そして……少し嬉しそうな表情も見える。
(やっぱり、男子校に女子が来るって特別なことなんだな)
月美は用意していた笑顔を浮かべて、丁寧にお辞儀をした。
「皆さん、おはようございます。吉野月美です。よろしくお願いします」
美月から教わった通り、少し低めの声でゆっくりと話す。練習の成果で、自然な女声になっていた。
「え……女子?」
最前列の田島が驚いた声を上げる。
(そうだよな、驚くよな。でも、これが計画の第一歩なんだ)
「ここ男子校だよな……?」
「可愛い子だな……」
「マジで女子?」
「どういうこと?」
桐原先生が共学化の説明をしている間、月美は内心で計画を確認していた。1ヶ月間、完璧に女子生徒を演じ切る。そして最後に真相を明かして、みんなに協力してもらう。
(うまくいくかな……)
桐原先生が促すと、月美は再び立ち上がった。
「転校の理由は……父の仕事の関係で。趣味は、読書と……音楽鑑賞です」
委員長に設定された転向の理由をつっかえることなく、でも控えめに答える月美。その初々しい様子に、教室からは「おー」という感嘆の声。深々とお辞儀をすると、自然と拍手が起こる。
(お前らが感嘆上げてるの野郎だからな!)
月美は苦笑いをして、もう一度お辞儀をした。
「ところで、今日桜井は?」
誰かが疑問を口にした。月美は内心でドキッとする。
(来た……この質問は予想してたけど、実際に聞かれると緊張するな)
「桜井は体調不良でしばらく休みだそうだ」
桐原先生が答える。
「そうですね、昨日から少し調子が悪いと言っていました」
月美も用意していた台詞を、心配そうな表情で答える。
(嘘をつくって、こんなに心臓に悪いのか……)
「なんで、しばらく桜井の席を使ってくれ」
と桐原先生。
これも、事前の打ち合わせ通りだ。でも実際にその瞬間を迎えると、月美の心臓は早鐘を打っていた。
(いよいよだ……自分の席に、月美として座るなんて)
月美は小さく「はい」と返事をして、軽やかな足取りで空席となっている『桜井美月』の席へ向かった。
歩きながら、クラスメートたちの視線を感じる。好奇心に満ちた、でも悪意のない視線。
(みんな、俺のことを見てる……でも、俺だって気づいてない)
そして椅子の前で振り返って、もう一度クラス全体に微笑みかけてから、ちょこんと椅子に座った。
座った瞬間、不思議な感覚に襲われた。いつもの自分の席なのに、まるで違う世界にいるみたいだ。
(お前ら全員騙されてるからな?俺に……)
視線をクラス全体に向けると、みんなが月美を見ている。田島も、山田も、佐藤も。いつもの仲間たちが、完全に別人として月美を見つめている。
(っていうか、誰ひとり気づかないとかマジかよ。俺天才かよ!)
ふと委員長の方を見ると、一人だけ明らかに様子が違う。
(あ、委員長、お前一人顔そむけてるのズリーぞ。なんかプルプルしてるのもしっかり見てるからな!!!)
委員長は必死に笑いを堪えているようで、肩が小刻みに震えている。
◆
最初の授業が始まると、月美は改めて女子生徒として座っている自分の状況を実感した。
(これが俺の新しい日常になるのか……)
国語の教科書を開きながら、周囲の空気の変化を肌で感じる。いつもなら男子だけの騒がしい教室が、今日は微妙に緊張感がある。
田島が振り返ってこちらを見る。いつもなら「おい美月」と気軽に話しかけてくる田島が、今は遠慮がちに見つめているだけだ。
(田島、お前そんなに緊張してどうしたんだよ)
山田も時々チラッと月美を見ては、慌てて前を向き直している。
(普段あんなに騒がしいのに……女子がいるだけでこんなに雰囲気変わるもんなのか)
佐藤は必死にノートを取るふりをしながら、横目で月美を観察している。
(佐藤まで……お前ら普段の俺にはそんなに興味示さないくせに)
周りの男子生徒たちが、チラチラと月美を見ているのが分かる。でも、それは疑いの視線ではない。純粋な好奇心と、少しの憧れのような目だった。
国語の先生が教科書の一節を読み上げる。それは夏目漱石の『こころ』の一部だった。
「吉野さん、この『先生』の心情を読み取ってもらえますか?」
突然先生に指されて、月美は慌てる。
(うわ、いきなり当てられた!)
「は、はい……」
(落ち着け、月美として答えるんだ)
月美は深呼吸をして、丁寧に回答した。声質を気にしながら慎重に、でも自信を持って。
「この場面では、『先生』の内面的な葛藤が表れていると思います。表面的には強がっているけれど、心の奥では過去への後悔を抱えている……そんな複雑な心境が描かれているのではないでしょうか」
(なんか、今の俺の状況とまるで一緒じゃないか……)
「素晴らしい解釈ですね。感情の機微をよく読み取れています」
先生に褒められて、月美は嬉しくなった。
(あれ、なんで嬉しいんだ……女子として褒められたから?)
自分の気持ちの変化に、少し困惑した。クラスメートたちからも感心の声が上がる。
「すげー、深い解釈だな」
「頭いいんだな、吉野さん」
「俺なんて全然分からなかった」
後ろの方からも「さすが女子」という声が聞こえる。
(お前ら、普段の俺の発言にはそんなに感心しないだろ……まあ、後ろの席の連中は普段俺と話さないから比較できないけど)
月美として過ごす初めての授業が終わった。まだ一時間目なのに、既にこんなにも多くの発見と驚きがあった。
(これからまだ一日が続くのか……)
チャイムが鳴り、休み時間になった瞬間、月美の周りに人だかりができそうな気配を感じた。
果たして、この月美としての学校生活は無事に続けられるのだろうか——
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