第11話 翠の風が翔ぶ瞬間(とき)

 ——落ち続けなければ、風の形には触れられない。

 痛みも恐怖も越えた先で、風はようやく彼女を選ぶ。



 ——

 ナナの修行は続く。

 

 湖畔の朝はいつも澄んだ風の匂いがした。

 白い霧が水面を漂い、陽が昇るとともに溶けていく。

 焦りながらも、風を掴む力を得る為に、ナナは努力を重ねていった。

 

 夜眠る中、夢の中でもナナはトキの夢を見ていた。

「……トキ。君は、私が必ず取り戻すよ……」そんな寝言が、静かな湖のかたわらの庵で、聞こえていた。

  

 

 樹上の枝がしなるほどの高さに登らされたかと思えば、次は巨大な風車の羽根に括りつけられて空を回った。

 

 湖面の風が吹き抜けるたび、ナナの髪が陽光を反射して散った。

 

 サリルの修行はいつも突拍子もない、思いつきに近いものばかり。だが元々、属性の違う魔女の感覚をそのまま伝えることはできない。

 

 土の魔女であるウリルと、水の魔女であるサリルの修行も、もうすこし理屈は考えられていたにせよ、やはり無茶の連続だったため、サリルにとっては、これが当たり前の修行の姿だった。

 

 ただ繰り返すが、サリルはウリルに比べて少し……いやかなり感覚的な人間であり、具体性のある説明がナナにされることは一度もなかった。

 

 そんな天気のいい朝。風の声を聞け、そう言われたナナは湖の空にいた。湖の中央付近の水面から約30グレン、つまり自分の背の二十倍弱もの高さにつれて来られていた。

 

 サリルは蒼い光を放つ不思議な鎧のようなものを纏っており、足元には水でできた薄いレール状のものが空にかかっていて、その上を滑るように、空をすすむ。

 

 進むに従ってその水のレールがどんどんのびて、後ろのそれはそれにあわせて短くなる。

 

 ついさっき、サリルは自分の魔女の力の解放をナナに見せてくれた。

 

 手に湖の水を掬うとそこに魔力を込める。蒼い光が水と混じり、膨張して身体全体に広がり、深い海のような蒼く優しい光が全身にまとわりつくと、形を取っていき、やがて蒼い鎧のようなものになる。

 

 そしてサリルは、ついでだから空をすすむ感覚を体験せよと、ここまでナナを運んできた。

 

 湖上をまさに滑るように進むのは風をいっぱい身体に感じられる得がたい体験だった。


「じゃあ、落とすわね」


 何事でもないように、あまりにも自然に、サリルの優しい声が、酷い内容を告げる。

 

「え? ハイッ?」

 

「全身で風を感じるのよ、下は深い水だから大丈夫、心配はいらないから、じゃ」

 

 そうなんの感慨もなく、ちょっとそこに飲んだカップを置くくらいの気軽さで、ナナは、30グレンの自由落下体験をさせられることになり……。

 

「キャー!!!!!」

 

 という悲鳴と一緒に、一気に水面に落ちていった。

 大きな水しぶきとともに、ナナが湖底に姿を消し、しばらくして、上がってきた。

 

 ぷはっと水を吐き出して、立ち泳ぎをしながら上を見上げる。

 素早く湖面に降下したサリルは、手を掴んで、ナナを宙に浮かべる。

 

「風、感じられた?」

 

「い、いえそれどころでは……」 

 

「そう、しょうがないわね、じゃあわかるまでやりましょうね」

 

 また和やかな笑顔から流れ出る美しい声で、物騒な言葉がナナの耳に届く。

 

「えええええ」

 

 そうやって、ナナは、ハイダイビングのような落下を、何十回も繰り返した。

 

 体が空を切り裂く。


 耳を裂く風の声がナナの世界を満たし、湖の鏡面が、何度もナナの眼前に近づいてきた。


 恐怖と興奮の境目で、ナナは初めて『風の形』を見た気がした。空気の中に走る風が線のように確かに見えた。

 

 そして、落ちる回数が増える度に、少しずつ身体が翠の光をまとうようになっていく。 

「感じるってことの意味わかってきた? それに一気に落ちることで、余計な考えを巡らす余裕がないのが、ちょうどよかったみたいね」

 

「はい、もうちょっとで何かつかめそうです。」

 

 最初は無茶なやり方に閉口していたナナではあるが、効果が見えてくると現金なもので、早く戻りましょうと、自分から積極的に水面から手を伸ばすようになっていた。

 

 そして、そんな水音の回数が百を越えた頃。

 

 落下していくナナの身体が翠の光に包まれ、そのまま湖面を穿つように消えていく。

 

 一瞬の静寂。

 

 次の瞬間、爆ぜるような風の音とともに水が盛り上がり、翡翠の鎧を纏った少女が、空へ跳ね上がった。

 

 胸の奥で何かが弾けるのに任せて、ナナは叫んだ。

 

「トキーッ!」——そう叫ぶ瞬間身体の中に濁りが完全に溶けて、懐かしい彼の香りを風がすっと運んできた気がした。

 

 鎧に纏う翠の光が、陽を受けて、一層鮮やかに輝いた。

 もう、その身体は風の膜に包まれており、水に濡れてはいない。

 

 風は冷たく、それでも優しく頬を撫でた。ナナはその向こうに、かすかな『彼』の気配と絆を確かに感じた。

 

 翠の魔女となったナナは、サリルを見上げ、その横まで、風を纏ったまま、急上昇した。

 

「ありがとうございました」

 

 深く、頭を下げて礼を言うナナを、碧の魔女が優しく見つめている。

 

「よくやったわね。これ貸してあげる」

 

 そう言って、サリルは、大きな魔玉のついた首飾りを自分の首から外し、ナナに差し出した。

 

「こんな大きな魔玉、いいんですか?」

 

「翔んでいくだけで、力使い果たすわけにはいかないでしょ、それ掛けていけば、そこの魔力だけでも、帝都までたどり着けるわ」

 

 ナナはその姉弟子からの餞別を受け取ると、自らの首にかけて、鎧の内側に忍ばせる。

 

「ありがとうございました」

 

「大事な人を取り返したら、一度戻ってきて、ちゃんと返しなさいよ、約束だからね」

 

「はい、必ず二人で返しに伺います」

 

 サリルは静かに微笑み、湖風がその言葉を運んでいく。

 

「行ってらっしゃい。貴女の風が、必ず大切な人に届きますように」


「いってきます」

 

 姉弟子の言葉を背中に、ナナは空を翔ぶ。

 

 翠の風は、真っすぐ『彼』のいる方角へ──。 


 風の膜で空気の抵抗を無視できる風の魔女であるナナは、空船では考えられない速度で、空を北にむかって飛んでいった。

 

 蒼の魔女は、その背を見送りながら静かに微笑む。

 

「貴女の風がきっと届きますように。貴女ならきっとできる」

 

 その呟きは、湖面を渡る風に運ばれ、湖の水に溶けて消えていった。


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