第7話 風(Air)

 風――それは、ここに生まれてから初めて出会った“予測不能”な現象だった。


 アマンダの頬を撫でる空気は、刑務区画の制御された冷気とはまったく違う。

 温度が一定ではない。匂いが混じっている。

 遠くの鉄と錆の匂い、湿った土の匂い、そして、微かに甘い何か。

 それらが、風に乗って絶えず形を変える。


 「これが……外の、空気……」

 124が小さく呟いた。

 その声は、驚きよりも戸惑いに近かった。

 光がない。星もない。

 天井が剥がれ落ちたような闇が、果てしなく続いている。


 二人は通風孔を抜け出し、廃棄された冷却区画の上に出ていた。

 高い壁の向こうに都市の外郭が見える。

 メーシの街。

 遠くに赤い標識の光が点滅している。

 無数の塔が夜霧の中に溶け込み、光と影の筋が交錯していた。


 「こんなに広いのに、誰もいない……」

 124が呟く。

 アマンダは答えられなかった。

 風が吹くたびに、胸の奥が軋んだ。

 世界は、自分たちの存在を必要としていない。

 そんな確信が、皮膚の内側にまで沁みてくる。


 ふと、地面に埋め込まれた金属板に足が当たった。

 そこには、薄く刻まれた文字がある。

 「資源再生区画 第九層」。

 刑務所の上層ではなく、下層――つまり、彼女たちは“処分場”に出たのだった。


 遠くで、機械の低い駆動音が聞こえる。

 アマンダは124の手を引いて、廃材の陰に身を隠した。

 巨大なアームが闇の中を這うように動き、古い機械を掴んでは粉砕していく。

 その動作には、何のためらいもない。

 命と鉄を区別しない、完璧な処理のリズム。


 124が囁いた。

 「ねえ、もし捕まったら、どうなるの?」

 「……消される。」

 「次の私たちが、また生まれるの?」

 「たぶん。」

 「じゃあ、今の私たちは、いらないんだね。」


 その言葉に、アマンダは呼吸を忘れた。

 “いらない”という音が、風に溶けて消える。

 思考よりも先に、身体が反応した。

 彼女は124の手を強く握りしめる。

 「いいえ。今は、いる。」


 124が驚いたように目を見開いた。

 その瞳に、反射した都市の灯が揺れている。

 彼女は、初めて誰かに“存在を認められた”のだ。

 その瞬間、アマンダは気づく。

 この感情こそが、制度にとっての最大の禁忌なのだと。


 風が、二人の髪を撫でた。

 遠くで警報の光が点り、都市の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。

 追跡は、もう始まっている。

 夜のメーシは、音を持たない街だった。

 高層群の内部では、気流と排気が機械的に制御され、風が風として存在しない。

 だからこそ、この地下処分層を吹き抜ける自然の風は、制度の隙間そのものだった。


 二人は崩れた搬出トンネルを進んだ。

 壁には過去の標識が残っている。「製造」「洗浄」「焼却」――どれも“再生”の別名だった。

 アマンダの足が泥に沈むたび、冷たさが骨にまで染みた。

 124は震えていた。寒さではない。恐怖だ。

 外の世界の広さが、彼女たちの存在をいっそう小さくする。


 「……私たち、どこに行くの?」

 124の声は、風にちぎれそうだった。

 アマンダは答えられなかった。

 “どこかへ行く”という概念を、彼女は知らない。

 彼女たちの生活には、方向というものが存在しなかった。

 与えられた作業、与えられた睡眠、与えられた言葉。

 それらの中で、動くという行為すら“許可”として定義されていた。


 「……上に行くの。」

 アマンダはそれだけを言った。

 口にした瞬間、自分でも驚いた。

 “上”という言葉に、意味があるのかも分からない。

 けれど、その言葉は不思議と軽く、温かかった。


 通路の終端には、巨大な換気塔が立っていた。

 その頂部には、淡く点滅する赤い光。

 塔の側面には整備用の梯子が取り付けられている。

 どこまでも続いているように見えた。


 アマンダは一段目に手をかけた。

 鉄が冷たく、指先に痛みが走る。

 だが、それでも彼女は登った。

 背後から124の手が重なり、二人の呼吸が重なる。

 息を合わせるたび、風が身体の周囲を撫でていく。


 塔の中腹で、十二階層分ほど登ったとき、アマンダは振り返った。

 下は暗闇。

 だが、その闇の奥で微かに光が揺れていた。

 再処理アームの灯だ。

 追跡が始まっている。

 赤い光が、二人の影を壁に映し出す。


 「アマンダ、これ、罪なのかな……?」

 124の声が震える。

 「わからない。」

 「でも、私、怖くないの。」

 「私も。」


 塔の上部から、突風が吹き下ろした。

 彼女たちは目を細めながら、やっとの思いで最後の段を登りきった。

 そこには、空があった。


 ――空。


 それは、閉じた空間の中で生きてきた彼女たちにとって、想像すらできなかった景色だった。

 黒い雲が流れ、遠くで稲光が閃く。

 風は全身を叩くように吹き抜ける。

 アマンダは目を閉じて、それを受け止めた。

 これが、世界の“呼吸”なのだと思った。


 124が泣いていた。

 涙の意味も知らず、ただ風に顔を晒していた。

 アマンダはその頬に手を伸ばした。

 「ほら、これも風だよ。」


 雷鳴が響いた。

 都市の外郭に、無数の光が走る。

 彼女たちは初めて、メーシの全貌を見た。

 美しく、そして異様だった。

 無数の塔が縦に積み重なり、空よりも高く伸びている。

 その光景はまるで、天に届こうとした罪人の墓標のようだった。


 「……あの上に、何があるの?」

 124が問う。

 「たぶん、同じもの。」

 アマンダの答えは風に溶けた。

 それでも、彼女の瞳は確かに笑っていた。


 遠くで警報が鳴る。

 それは、もう二度と戻れない世界の音。

 アマンダは風を吸い込み、静かに呟いた。

 「私は、罪ではなく、意志で生きたい。」


 雷が裂け、雨が落ち始めた。

 風は、彼女たちを包み込むように吹き抜けていった。

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