第4話 記憶(Trace)
静寂が降りる。
午前の作業棟は、機械の唸り声で満たされている。
だが、今日の音はどこか違っていた。
金属の回転軸が軋み、誰かの呼吸が混ざっている。
それは生き物の鳴き声に似ていた。
アマンダは手を止めて、耳を傾けた。
監視官は見ていない。
誰も彼女に注意を払わない。
だから、彼女は工具を机の上に置き、
音の出所を探るように歩き出した。
作業区画の奥、壁に取り付けられた古い端末。
普段は使われない旧型の通信機器だった。
その画面が、微かに明滅している。
まるで、呼吸しているように。
アマンダは迷った末に、画面に触れた。
灰色の文字が浮かび上がる。
「アーカイブ No.9821:アクセス制限解除コード?」
意味は分からない。
だが、指先が勝手に動く。
数字を打ち込むたびに、脳の奥が疼く。
記憶でも知識でもない、
体が覚えている何かがそこにあった。
四桁目を入力した瞬間、
画面が光に包まれ、古い映像が流れ出す。
ノイズ混じりの白黒映像。
そこには、一人の女がいた。
その顔を見た瞬間、アマンダは息を呑んだ。
それは彼女自身だった。
いや、彼女ではない。
もっと年上で、目の奥に深い皺を刻んだ女。
声が流れる。
「被告番号1729、アマンダ・コールマン。
国家反倫理罪、及び複製倫理条約違反。
判決——終身刑。」
言葉が、鉄のように重く響いた。
“コールマン”という姓に、胸の奥が熱くなる。
アマンダ・コールマン。
——それが、原型の名前だった。
映像の女は椅子に縛られていた。
静かに微笑みながら、判事の目を見ている。
その笑みは、諦めでも懺悔でもなく、
まるで何かを確信している人間のようだった。
「あなたの行為は倫理に対する冒涜です。」
「いいえ。倫理が私たちを殺しているのよ。」
裁判官が怒鳴る。
記録が乱れ、音が途切れる。
映像が終わったあと、
画面には短いテキストが残された。
「被告は判決後、脳神経データを国家倫理保存局へ提供。
翌日、第一世代複製体(R-1)生成開始。」
アマンダは震えた。
自分たちは、この女の“償い”の形だった。
彼女の行動が何であれ、
その結果が今の世界を作り、
そして自分という存在を生んだ。
しかし、何を“反倫理”とされたのか。
何を犯したから、この終わらない刑罰が始まったのか。
記録には、核心が記されていなかった。
夕方、作業が終わる頃、
アマンダは同室の囚人にその話を打ち明けた。
彼女はいつか夢を語った、あの“声の主”だった。
「原型の名前を見たの。アマンダ・コールマン。」
「それがあなたの罪なの?」
「……たぶん。
でも、あの人は罰を恐れていなかった。」
囚人はうつむいた。
彼女の顔に、光が落ちる。
「うちの区画でも同じ話を聞いたことがあるよ。
最初のアマンダは“倫理の反証”を作ろうとしたんだって。
人間が倫理を手放したとき、
本当に世界が壊れるかを確かめたかったんだって。」
「それが……罪?」
「分からない。
でもね、その人の実験が成功したから、
私たちが生まれたのかもしれない。」
アマンダは黙り込んだ。
倫理を失った世界。
その果てに、クローン制度という“秩序”が築かれた。
もしそれが彼女の意図なら、
アマンダたちは倫理の“副産物”だった。
夜。
就寝時間になっても、眠れなかった。
頭の中で映像が何度も再生される。
あの女の目。
あの静かな声。
そして最後の言葉。
「倫理が私たちを殺しているのよ。」
それは呪いのように響いた。
倫理とは、人を守るものではなく、
人が作った檻なのかもしれない。
それに気づいた者だけが、罰せられる。
だから、アマンダは罪人として生まれた。
——思考すること、それ自体が罪なのだ。
明け方。
空調の低い音に混じって、再びあの裂け目の方角から風が吹いた。
小さな埃が光を反射する。
アマンダは布団の上で手を伸ばした。
その風は、外からではなく、まるで中から吹いてくるようだった。
彼女は思う。
自分の中にも裂け目があるのだ。
倫理で覆われた意識の内側に、小さな“外”がある。
そこからこぼれるものが記憶なら、
自分はそれを取り戻すために生きているのかもしれない。
次の日、作業開始のベルが鳴る。
アマンダは机の上に置かれた工具を手に取る。
重い金属音が響くたびに、
昨日までの自分が少しずつ剥がれていく気がした。
もし、倫理とは痛みの回避であり、
罪とは痛みを受け入れることだとすれば、
——彼女は、痛みを選ぶ。
手のひらの中の小さなネジを見つめながら、
アマンダは静かに呟いた。
「倫理が私たちを殺しているなら、
私たちの呼吸が、きっと世界を生かしてる。」
誰にも聞こえない声だった。
けれどその言葉は、彼女の中で確かな熱を持っていた。
その熱は、やがて裂け目を破る力に変わる。
まだ知らない未来のために。
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