第2話 罪(Mark)
朝が来た。
この世界の「朝」は、光ではなく音で訪れる。
天井のスピーカーから電子音が鳴り、照明が一斉に明滅する。
そのリズムに合わせてベッドのロックが解除される。
全員が同じタイミングで起き上がる。
生まれたときから定められた動作を、今日も繰り返す。
アマンダは立ち上がると、隣の個体を見た。
昨日と同じ顔。
それは自分の顔だ。
この施設では、鏡はいらない。
他人を見るだけで、自分の表情が分かる。
朝の祈祷は三分間。
それは宗教というよりも、儀式的な倫理訓練だった。
全員が同じ文言を唱える。
「われらは罪を負い、赦しを望まぬ者なり。
われらは罰を生き、罰の中に在ることを喜びとす。」
意味は誰も理解していない。
ただ、声を揃えることが“正しさ”と教えられている。
声を出さなければ、矯正プログラムに送られる。
それを“反省室”と呼んでいたが、実際は暗闇の中に閉じ込められるだけだった。
数時間の隔離で、誰もが正しい囚人に戻る。
アマンダはその文言を口にしながら、内心で何度も噛み砕いた。
罪とは何を意味するのだろう。
それは「行為」ではなく「存在」そのものを指している気がした。
息をしている限り、罪は終わらない。
だから、この世界では呼吸が罰の継続を意味する。
作業棟では、昨日と同じ鉄の匂いが漂っていた。
手袋越しに感じる金属の冷たさ。
ネジを回す音、部品を組み合わせる音。
それらが重なって、まるで一つの巨大な心臓の鼓動のように響く。
作業の途中で、アマンダは左隣の個体が小さくつぶやくのを聞いた。
「……昨日の夜、夢を見たの。」
許可のない会話は禁じられている。
しかし監視員は遠くにいた。
アマンダは手を止めずに、声を潜めた。
「どんな夢?」
「誰かが、私の名前を呼んでた。
でも、“アマンダ”じゃなかった。
もっと柔らかい音だった。
それを思い出せないの。」
それは危険な話題だった。
夢を語ることは、個を認めることと同義。
この施設では、個性を示すことが最大の“反倫理行為”とされている。
アマンダは胸の奥が熱くなるのを感じた。
“呼ばれる”という感覚。
それは罪よりも、人間らしさの匂いがした。
昼の点呼のあと、食堂に移動する。
食事は灰色の糊のようなもの。
栄養は完全に管理され、味覚を必要としない。
食べるという行為すら、義務であり、償いの一部だ。
アマンダは無意識に、隣の囚人の皿を見た。
全く同じ量、同じ形、同じ温度。
それでも彼女は思った。
「同じじゃない気がする。」
その囚人はゆっくりとスプーンを動かしていた。
指先が震えている。
顔を上げると、涙が頬を伝っていた。
「どうしたの?」
「わからない。
ただ……味がした気がしたの。」
味覚は抑制剤で完全に消されている。
ありえないことだった。
アマンダは思わずスプーンを握りしめた。
ほんの少し、鉄の匂いが混じった。
口の中にそれを入れると、
確かに何かが“違う”と感じた。
それは味ではなく、記憶の断片のようなものだった。
夜。
ベッドに横たわりながら、アマンダは天井を見つめていた。
昨日と同じ場所。
だが、微かに空調の音が違う。
それだけで世界が変わったように思えた。
「罪って、誰が決めるんだろう。」
彼女の問いに、隣の囚人――昼に夢を語った彼女が答えた。
「生まれた人たちが、死んだ人たちの罪を分けるんだって。
だから私たちは“死の代わり”なんだと思う。」
「死の代わり?」
「うん。
昔は、人が罪を犯したら死刑っていう罰があったらしい。
でも今は、人を殺すことが罪だから、私たちが代わりに罰を受けるの。
死ぬことができない罰なんだよ。」
その言葉を聞いた瞬間、アマンダは息を詰めた。
死ねない罰。
それは生きるよりも長い苦しみだった。
もし、死が終わりを意味するのなら、
自分たちの存在は永遠の延命処置に過ぎない。
赦しのない生命。
それは倫理ではなく、宗教の模倣だ。
翌朝、アマンダは罰を受けた。
理由は簡単だった。
作業中に「罪」という言葉を発したからだ。
反省室は暗闇だった。
照明はなく、温度も一定ではない。
天井から落ちる水滴の音が、時間を刻む唯一の存在だった。
アマンダは目を閉じた。
誰もいない空間で、彼女は思考を始めた。
「もし、罪が行為じゃなく“生まれ”にあるなら、
罪を犯さない人なんて、どこにもいない。」
口の中に金属の味が残っていた。
それは鉄ではなく、血の味だった。
指先を見ると、爪が食い込んでいた。
その痛みを、彼女は“自分”のものとして感じた。
罪とは、痛みを知ることではないか。
もしそうなら、痛みを感じられる彼女たちこそ、
本当の意味で“人間”なのかもしれない。
数時間後、扉が開き、職員が言った。
「再教育は完了したようね。」
彼女は無言で立ち上がった。
光が痛い。
だが、その光が“外”ではないことを、アマンダは理解していた。
それでも――少しだけ胸が温かかった。
痛みがある限り、
彼女はまだ生きている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます