第2話 北端の庫で芽の音を聴いた朝
水鏡の縁で低く鳴る鐘の名残りが夜露に包まれて薄くなり、空の川に走る白い筋が東の山稜に触れてほどけ、冷たい匂いを運ぶ風が頬の塩を柔らかく舐めていく頃、首に掛けた小さな護りの木が胸骨の上で静かな重みを保ち、足裏では湿りを含んだ黒土が柔らかい抵抗を返し、畝の線が暗い鉛筆の下描きみたいに地表へ浮かび、その線の先にある北端の影が、呼ばれた場所の輪郭としてはっきりと立ち上がり、昨夜の輪の中心で砂時計をいじっていた舟の人が言った合図など必要ないと約束した言葉を思い出しながら歩幅を決め、呼吸の拍を土の歌に合わせて伸ばし、乾く前の肺が朝の水を分け合うみたいに満ちたり引いたりする感覚を頼りに進み、湿った霧の糸が二の腕の産毛に触れて微細な鳥肌を点々と置き、袖口の布が朝露をはじく時のかすかな音が自分だけに聞こえる合図のように思えて、迷わず北の端へ着いたと確信できた瞬間、丸太を横に渡して組んだ粗い小屋の影から、年齢の見当がつかない細い背筋の持ち主が姿を現し、額の皺に刻まれた笑いの名残と、瞳の奥に宿る疲労ではない深さが、見知らぬ相手の中に家の古い血の節を感じさせ、こちらが名前を出す前に、相手は先に麦を踏む時に呼ばれた幼い日の呼称を口の端で転がし、湿った空気を割らない低さで、おおよそ約束の時刻だ、良く来たと囁き、指の節に残る灰色の粉を払いつつ、庫の扉についた縄の結び目へ爪先で触れて、ささやかな儀礼が始まるからよく見なさいと合図を送り、倉の鍵が単なる鉄ではなく乾いた冬の月のかけらを封じた石であり、縄の中に生き物の息が通る細い管が編み込まれていることを、触れた瞬間に手の温度がわずかに吸われる感覚で教え、こちらの喉の奥で昨日の砂が音を潜め、代わりに冷たい水の線が一本引かれたような気持ちが広がって、目の焦点が扉の表面へ吸い込まれて離れなくなった。
庫の番を務めるというその人は、曾祖母ではないが同じ棚で米を研ぎ、同じ石で臼を回し、同じ雨を越えた誰かの姉妹に当たると後で知ることになるが、この時点では名も称も重要ではなく、指の動きの遅さと早さの配分や、呼吸の間で結び目を解く順番、縄を緩めすぎず硬くしすぎずに踊らせる加減、鍵を石から土へ一度だけ触れさせる理由を前置きなく身振りで見せる導きだけが価値を持ち、見せられた所作を胸骨の裏側に写し取り、脳ではなく横隔膜に記録するつもりで眺め続けると、扉板の樹脂の香りが一段濃く立ち上がり、朝焼けの色が伐られた年輪の薄い帯へ滑り、板目の中の細い川が動くように見えて、庫の内部にしまってある数え切れない壺や袋や瓠の中で眠る種子の群れが、未だ発芽の手前で流す微細な鳴き声を、耳ではなく皮膚のどこかで拾い始め、汗腺の一つひとつが小さな受信器みたいに開く感覚が現れ、そっと息を細く吐き、顎の力を抜き、舌の裏に残る塩気を忘れ、腹で重さを受け止めてから首筋を軽く伸ばす姿勢を保つだけで、さっきまで遮断されていた帯域が開通し、乾いて終わったはずの自分に再生の回線がつながるような、静かで確かな転換が生じた。
結び目が最後の一息で自らほどけるみたいにゆるみ、石の鍵が音を立てずに外れ、扉が掌一枚だけ開いた隙間から湿った暗さが流れ出して足首を撫で、土と紙と古い藁と油と樹皮の混ざる匂いが、子どものころ盆の倉でかくれんぼをした時に嗅いだ記憶を呼び出しつつ、それとは違う未知の甘さを隠し、番の人は躊躇を見せずに灯りを持たず、暗がりの中へ手を差し入れ、壺の耳を掴むようにして一つ、二つと軽い音のする容器を引き寄せ、足元へ置いてから両掌を擦り合わせ、肌の面に残った微粉を空気へ散らし、その粉が朝の湿っぽさと絡んで薄い線を描き、線は扉の縁から庫の奥へ真っ直ぐ延び、やがて天井近くで消えたように見えたが、実際にはそれが案内の縄として働き、暗いところで迷わないように目ではなく骨の中の重心が進む方向を知る仕掛けとなり、こちらの内側にある乾きの影が粉の線に触れて湿りを吸い、その変化が同時に外の霧の量にも反映されるらしい不思議な連動を、言語で説明されるより先に身体が理解し、番の人は満足げに一度頷き、次はあんたの番だと言わんばかりに身を引き、壺の蓋へ指を添え、耳を近づけ、器の中で眠る粒の音に差を聴き分ける作業へ誘う視線を送った。
陶の蓋をわずかに回し、指の爪が滑らない程度の角度で止め、頬の筋肉を固めず、鼓膜が勝手に震えるのを待つと、壺の腹の中から砂が雨になる前に見せる薄いざわめきが、遠雷の直前の空気の密度と同じ圧で伝わり、その中に一つだけ別の高さを持つ粒が混じって、そこから右へ三指ほどの位置にある別の音と呼応し、二つの音の間に極細の糸が張られ、糸は壺の外へ伸びて首に掛けた護りに触れ、木の小さな勾玉が冷たく重く震え、震えが胸骨に達して拍を刻み、拍の数に合わせて呼吸を調えると、糸が太くなり、音が近づき、壺の中の粒が自身の名を呼ばれたことを確認して僅かな笑いを返すみたいに弾み、蓋の縁で跳ねる小さな衝突が音の端に明るい色を差し、番の人がそれそれと囁いて、音色の違いを見失うな、欲を挟むな、手の温度で粒の未来を歪めるなと短く連ね、合図と同時に別の壺をこちらへ差し出し、土器の肌へ指の腹を当てる前に、一呼吸だけ空を見上げて、雲の薄さと太陽の高さと風の向き、とくに水鏡のさざ波が反射する方角を確認し、その外側の条件と器内の微音が一致する瞬間を待ち、合わないなら口を閉じ、合ったなら合図を出す、ただそれだけの作業を繰り返し、庫の入口の霧が濃くなり過ぎないよう、時折扉を指幅ほど閉じ、粉の縄が乱れないように足の位置をずらし、壊れやすい秩序を守るために必要なわずかな配慮を、指導者の視線の端だけで受け取り続け、気づけば二十ほどの器に触れ、朝の静けさの中で無数の名も知らぬ命の息吹を、音として胸の襞へ縫い付けていた。
いくつかの粒は水気を嫌い、別のいくつかは夜風を好み、また別のいくつかは土の中に眠る石の斑点を目印にし、なかには開墾に使った古い鉄の錆の匂いに喜んで根を伸ばす気難しい種類もあり、それぞれの癖を札へ刻む方式を番の人は教え、迷路の線のどこを太くし、どの角を丸め、どの交差に小さな点を足すべきか、指でなぞって示し、薄い木札の端へ息を吹きかけ、湿りの量で意味が変わる箇所へ印を置き、札全体に走る微かな脈動が畝の呼吸と揃うまで待つ忍耐を身体で覚えさせ、そうやって作られた一枚が貨幣であり契約であり、同時に賭場の種にもなるという矛盾のようで矛盾ではない性質を、笑わずに飲み込む強さを求め、こちらも頷いて、昨夜輪の縁で耳を使う遊戯をした時に感じた、秤の揺れと土の歌が同じ拍で踊る奇妙な一致を思い返し、札の表を整えるほどに誘惑が裏から顔を覗かせる仕組みを認め、その危険と必要が同居する板の上で立つ姿勢を今日のうちから練習する決意を固め、札の角を爪で軽く叩いて音を確かめ、叩きすぎれば利子が増えて返済が重くなる暗黙の規則があると聞き、軽率に音を鳴らさない慎みを覚え、胸の勾玉へ指を添えて震えを収め、湿った空気を深く吸い込んだ。
番の人は一息つき、庫の奥の暗闇へ視線を滑らせ、そこに眠るもっと古い器物へはまだ触れないほうが良いと静かに告げ、理由を長く説明せず、あんたの喉に残る砂が完全に水へ変わってからにしなさいとだけ言い、続けて小屋の横に立つ細い柱の影へ歩み寄り、影の先端が畝の縁に触れる瞬間に合わせて札の一角へ薄い刻みを加え、光の長さと粒の目覚めの相関を実演し、こちらにも同じ作業を試させ、最初は刻みが深過ぎて札の呼吸が乱れ、影が跳ねて畝の線が揺れ、芽の先の露が一つ落ちる失敗をしたが、番の人は叱らず、同じ箇所に舌を伸ばす猫のように静かな集中を見せ、やり直しの余地を明るく示し、二度目には刻みを浅くして呼吸を合わせ、影が波立たず、露が無事に残り、札の迷路がすっと滑らかにつながり、胸の内側でひそかに拍手が起きるみたいな喜びが広がり、乾いた死を通った後に来る学びが、ただ優しいだけではない厳密さと、しかし壊れやすいものを守る優しさの両方を要求することを、体の末端で理解した。
朝が進み、空の川に漂う光の粒が増え、水鏡の表面で跳ねた反射が倉の壁へ薄い鱗の模様を並べ、畝の上では小さな脚を持つ虫が露の粒を渡る橋のように扱い、羽の薄膜が風の角度を測る器具みたいに震え、遠くでは夜の輪に集まっていた人々がそれぞれの作業へ散り、舟が静かに岸を離れ、鐘が一つだけ余韻を残し、圃の呼吸全体が朝の速さから昼の緩さへ移る前の短い過渡を迎え、番の人はそこで今日の課を締めると告げ、庫へ一礼し、石の鍵を再び土へ軽く触れさせ、縄の管へ息を吹き込み、結び目を元の形へ戻し、扉板の樹脂の匂いがさっきよりも甘く変わるのを確かめ、緩めた粉の縄を空気へ溶かし、案内の線が見えなくなる前に足を引き、庫の周辺に残った微かな霧の糸を指で回収し、掌で丸めて額へ当て、額の熱を落とすささやかな儀礼を教え、こちらも同じように真似をして、額の皮膚に残る朝のしずくの冷たさを感じ、乾いた死の記憶の角がもう少しだけ丸くなったことを、誰の言葉も介さずに理解した。
小屋の前で別れる前に、番の人は一枚の札をこちらへ渡し、裏面に小さな印が三つだけ刻まれ、今夜の輪で必要があればこれを使いなさいと告げ、ただし賭けるためではなく、耳の練習として、砂時計の音と天秤の揺れを畝の歌と重ねるための手本にしなさいと付け加え、札の隅を親指で押さえたまま、指の腹に残る粉の感触を確かめ、頷いて受け取り、胸の護りの紐の下へ差し込み、札と木と体温が触れ合って生まれる微かな脈の一致を確かめ、番の人は最後に、乾きに倒れた末にここへ来た者は、喉の砂の記憶を忘れずに畝を守る術を覚えるから、欲で耳を濁すよりも早く畑が教える、と短く言い、笑いにも叱責にも偏らない深さで目を細め、背を向けて庫の影へ消え、その姿が板の木目に吸い込まれたみたいに見えなくなった。
畦道を戻る途中、朝の仕事を終えた舟が別の岸へ向かい、帆のない短い船底に積まれた網袋の口から穀粒の端がきらりと覗き、舳先の小さな鐘が水の皺に触れて一度だけ鳴り、音は薄いが意味は重く、輪の約束が今夜も開くことを知らせ、胸骨の裏がその合図へ応えて静かに上下し、昨夜の輪の縁で遊戯として練習した耳の使い方が、今夜は札という具体の重みを伴って試されるのだと、楽しさと怖さが同時に肩に乗り、足取りは軽くもなく重くもなく、畝へ返すに相応しい速度で続き、圃の中央に近づくと、昨日の祖の背中が見え、腰に下げた袋の口から札の角が薄く覗き、こちらに気づいて顎をわずかに引き、合図を送る代わりに畝の端に指を置き、音の高さを示し、こちらも庫で覚えたばかりの微妙な聴き分けを試し、二人の呼吸が同じ速さで伸び縮みし、土の奥で水の歌が昼の準備に入る手前の静かな調子へ移り、畝の線が落ち着いた布の折り目のように整い、芽の先が細い太陽を小さく映し、胸の護りが汗を吸って冷え、その冷たさが集中を長持ちさせ、乾いて死んだ日の最後の視界にあった銀色の箱の眩しさが、今はもう遠くの別世界の道具に過ぎず、ここで使うべき器具は指と耳と札と呼吸であり、賭けは破滅ではなく調整であり、しかし足を滑らせれば一枚の畝が一夜で枯れる危険を忘れないこと、そんな基礎の上に夜の輪が立つことを、今日のうちに体へ刻み、夕方までの作業を見通して、必要な霧の量と虫除けの香草の束の数を計算し、庫から借りた印の意味を忘れないように札の端へ指を添え、日が昇り切る前にやるべき工程を一つずつ静かに片づける準備を整えた。
午の少し手前、風向きが山から水面へ変わり、遠くの輪の場所に近い岸辺から香草を煮る匂いが早めに漂い始め、誰かが火加減を試しているのだと察し、祖に昼の段取りを告げ、夜に備えて耳を休める時間を少しだけ確保し、畝の端へ昨日より小さな影が伸びるのを確かめ、札の角へ軽い刻みを一つだけ増やし、影と音と風を揃え、霧を薄い絹の膜のように指で引いて露を過不足なく置き、芽の肩に負担をかけずに水を飲ませ、畝の呼吸が穏やかになるのを見届け、祖は片目だけ笑い、こちらの胸の奥で喜びが泡立ち、泡は遠い空気穴から逃げず、骨の隙間に留まって熱を生み、熱は腕へ落ちて指先を温め、夜の輪へ向かう道の緊張を前もって解き、賭けではなく調律をしに行くのだという意識が定まり、漫然と熱に飲まれる危険から距離を取り、札の重みを改めて確認し、胸の護りの感触を頼りに、夕暮れを待つ支度を始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます