同期の檻
@hukai_shin
第1話 誤読の始まり
バックスペースを三回。
消した文字が、画面に残る。
『分かってほしい』
送信しなかった。
送信したら、終わる気がした。
美月からの返信。
三時間前。
『ごめん。今日は無理』
理由がない。
理由を聞けば、喧嘩になる。
だから聞かない。
でも、胸が冷たい。
スマホを置く。
画面が暗くなる。
俺の顔が映る。
誰だ、これ。
玄関のドアが開く。
美月が入ってくる。
「ただいま」
声が、遠い。
「おかえり」
俺の声も、遠い。
二人の距離、三メートル。
昨日より、五センチ遠い。
測ってるわけじゃない。
でも、分かる。
美月がキッチンに立つ。
冷蔵庫を開ける。
牛乳を取る。
コップに注ぐ。
音が、四回。
トク、トク、トク、トク。
昨日は三回だった。
「……何見てるの」
美月が振り向く。
「なんでもない」
嘘だ。
全部、見てる。
美月が笑う。
口だけ。
「最近、ずっとそう」
「そうって?」
「私のこと、観察してる」
否定できない。
否定したら、嘘になる。
「分かりたいんだ」
「何を」
「君を」
美月がコップを置く。
音がしない。
サイレントモード。
「分からなくていいのに」
喧嘩は、些細なことから始まった。
洗濯物の畳み方。
シャツの襟が、三ミリずれてた。
「これ、ずれてる」
俺が言った。
「ずれてない」
美月が答えた。
測った。
定規で。
三ミリ、ずれてた。
「ほら」
美月が黙る。
三秒。
「だから、何?」
だから、何。
答えが出ない。
でも、気になる。
「ちゃんとやってほしい」
「ちゃんとやってる」
「でも、ずれてる」
「ずれてても、いいじゃん」
いい、のか?
分からない。
美月が立ち上がる。
「もう、疲れた」
「何が」
「あなたの『完璧』に」
完璧?
俺は完璧を求めてない。
ただ、正しくあってほしいだけ。
「俺は——」
「分かってる」
美月が遮る。
「あなたは悪くない」
「私が悪い」
「私が、ずれてる」
違う。
そうじゃない。
でも、言葉が出ない。
美月が部屋を出る。
ドアが閉まる。
音が、遅れて聞こえた。
バタン。
一秒後。
三日間、会話がなかった。
同じ部屋にいるのに。
美月はスマホを見てる。
俺もスマホを見てる。
画面越しに、世界がある。
でも、隣にいる彼女が見えない。
四日目の夜。
俺が言った。
「システム、使わないか」
美月が顔を上げる。
「システム?」
「感情同期システム」
美月の目が、細くなる。
「あれ、本気で言ってるの?」
「本気だ」
美月が笑う。
声が出ない。
「あなた、それで私を『理解』するの?」
「そうだ」
美月が立ち上がる。
俺に近づく。
顔が、近い。
息がかかる。
「理解、されたくない」
でも、俺は言う。
「理解しないと、愛せない」
美月の表情が、止まる。
フリーズ。
三秒。
「……本気?」
「本気だ」
美月が一歩下がる。
「じゃあ、やろう」
「え」
「やろうよ、その同期ってやつ」
美月の声が、冷たい。
「それで私を理解できるなら」
「やってみて」
クリニックの扉を開ける。
白い壁。
白い床。
白い天井。
全部、白い。
受付に女性が立っている。
笑顔。
完璧な笑顔。
「ようこそ」
声が、優しい。
「救済の第一歩です」
救済。
この言葉が、胸に刺さる。
受付が続ける。
「同意書に、サインをお願いします」
紙を渡される。
読む。
『感情同期システム利用規約』
第一条:理解は祝福である
第二条:同期は救済である
第三条:完全理解を目指すこと
最後の一行。
『利用者は、自我の変容を受け入れるものとする』
自我の、変容。
ペンを握る。
手が、震える。
美月が隣で、サインした。
迷わずに。
俺も、書く。
名前:蓮
受付が微笑む。
「ありがとうございます」
「では、こちらへ」
廊下を歩く。
足音が、響く。
トン、トン、トン。
俺の足音。
トン、トン、トン。
美月の足音。
リズムが、合ってない。
部屋に入る。
中央に、椅子が二つ。
向かい合って。
間に、機械。
画面に、文字。
『同期準備中』
医師が入ってくる。
白衣。
十字架のようなバッジ。
「お二人とも、覚悟は?」
医師が笑う。
「理解し合うことは、神の意志です」
神の、意志。
医師が続ける。
「では、装置を装着します」
頭に、バンド。
胸に、センサー。
手首に、モニター。
画面が光る。
『心拍数計測中』
『脳波同期準備中』
『感情マッピング開始』
美月を見る。
美月も、俺を見てる。
目が、合う。
医師が言う。
「では、始めます」
ボタンを押す。
ピッ。
画面が変わる。
『同期率:0%』
数値が動く。
5%。
10%。
15%。
美月の心拍数が、画面に表示される。
72bpm。
俺の心拍数。
68bpm。
ずれてる。
でも、これから合う。
医師が言う。
「最初は違和感があります」
「でも、すぐに慣れます」
「理解は、自然に訪れます」
同期率が上がる。
20%。
美月の表情が、少し和らぐ。
25%。
俺の胸が、温かくなる。
30%。
何かが、流れ込んでくる。
美月の、悲しみ。
理由は分からない。
でも、確かに感じる。
「……美月」
「何」
「君、悲しいのか」
美月が驚く。
「なんで、分かるの」
「感じる」
同期率が上がる。
35%。
美月の、不安。
俺の、焦燥。
混ざっていく。
医師が笑う。
「順調です」
「このまま続けましょう」
画面に、新しい文字。
『共感度:上昇中』
『祝福に近づいています』
祝福。
これが、祝福なのか。
同期率:40%。
美月の手が、震えてる。
「大丈夫?」
「……分からない」
「分からない?」
「これが、私の感情なのか」
「あなたの感情なのか」
同期率:45%。
俺も、分からなくなってきた。
医師が言う。
「それが、理解です」
「境界が、溶けていきます」
溶ける。
自分が、溶けていく。
同期率:50%。
画面に、メッセージ。
『あなたの孤独は、相手に届きました』
俺の、孤独。
美月に、届いた。
美月が泣いてる。
「ごめん」
「何が」
「あなたを、独りにしてた」
同期率:55%。
俺も、泣いてる。
「俺も、ごめん」
医師が頷く。
「美しい」
「理解が、始まっています」
同期率:60%。
セッション終了。
医師が装置を外す。
「今日はここまで」
「次回は、さらに深く」
立ち上がる。
足が、震える。
美月が手を伸ばす。
「帰ろう」
手を、握る。
温かい。
でも、これは誰の温もりだ。
帰り道。
二人で歩く。
足音が、揃ってる。
トン、トン、トン。
美月が言う。
「ねえ」
「ん」
「今、幸せ?」
幸せ。
「……たぶん」
「たぶん?」
「分からない」
美月が笑う。
「私も」
二人で笑う。
でも、笑い声が重なる。
同じタイミング。
同じ高さ。
少しだけ、怖い。
システムログ#0428
同期率:60%
セッション:1/5
次回予約:3日後
備考:順調。感情伝達、良好。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます