第13話 トラップ部屋で命がけ修行!?

 ――ドッゴン!!


 天地がひっくり返ったような衝撃のあと、鳥内瑠散は目を開けた。

 鼻に入るのは、古びた木と埃の匂い。

 目の前の床は、ギシギシと不穏に鳴る。


「……まさか、やっちまったか……?」


 そう呟いたときにはもう遅かった。

 視界に広がるのは、見渡すかぎりの罠、罠、罠。

 壁には槍のスイッチ、床には落とし穴の線。

 そして天井からは――なぜか巨大なハリセンが吊られていた。


 ここは炎の塔に存在するという「トラップ部屋」。

 千田界でもっとも理不尽で、もっとも油断のならない訓練場だ。


 誰もがその名を聞くだけで身震いする――

 ……ただし、主に変な意味でである。


「なんでハリセンが罠なんだよ……」


 瑠散は額の埃をぬぐいながら、辺りを見回した。

 転送陣を踏み間違えたらしい。

 千田界の転送陣には「おっちょこちょい仕様」というのがあり、うっかりすると全く別の場所に送られるのだ。


(うわ、最悪……早く出なきゃ)


 そう思っていた、そのときだった。

 不意に耳に入る――小さな舌の音。


 ペロ……ペロ……ペロ……。


 その音の主を探して顔を上げた瞬間、瑠散の動きが止まった。


 そこにいたのは、一匹の猫。

 畳の真ん中で、日向を背に、ゆるやかに毛を舐めている。

 腰には小太刀、瞳は深い紫色。

 背筋がまっすぐ伸び、毛並みは絹糸のように光を反射している。


 ――ネコムネ・タマ次郎師匠。


 毛刃流けじんりゅうの最後の継承者にして、千田界最強の猫剣士。

 その凛々しき名が、いま瑠散の脳裏に浮かぶ。


「ふむ……右頬の毛並み、昨日の霧で少々乱れおったな……ペロペロ……」


 まるで禅僧のような落ち着き。

 背後でトラップがピクピク動いているにもかかわらず、まったく動じない。

 それどころか、全身の毛を整えることに集中している。


(……師匠、何やってんの?)


 かつて瑠散に剣を教え、「毛並みと剣筋は、心でつながっておる」と説いた師。

 その猫が、今はただ夢中で自分の尻尾をペロペロしている。


「やっぱ毛刃流の極意って……美容だったのか……」


 瑠散は頭を抱えた。

 しかし、今さら声をかけるのも危険だ。

 毛繕い中のネコムネ師匠は、下手をすれば修羅より怖い。

 ひとまず静かに、部屋の端へ、そう忍者のように移動しよう。


 膝を曲げ、音を立てず、床の木目の弱い部分を選んで進む。

 一歩、二歩、三歩……床がギシ、と鳴るたびに心臓が跳ねる。

 壁の罠を避け、吊るされたハリセンの影をすり抜ける。


(よし、このまま出られれば――)


 その瞬間。


 カコーンッ!!!


 膝が何かに当たった。

 床を転がる銀色の物体、それは、空の猫缶だった。


「ニャッ!? 今の音は……貴様ァァァ!!」


 師匠の紫の瞳がギラリと光った。

 背中の毛が一瞬でボフッと逆立ち、跳躍とともに宙へ!


「侵入者か!? 刺客か!? この毛繕いの最中に無礼者とはッ!」


 空気が裂ける音。

 小太刀がシャキィンと抜かれ、瑠散の首筋の寸前でピタリと止まった。

 冷や汗が背中をつたう。


「し、師匠ぉ! ちがうんです! 猫缶が勝手に転がって……!」


 瑠散は反射的に土下座した。

 額が畳にぶつかる音が、ハリセンの揺れる音と混じる。


「毛繕い中に音を立てるなど、万死に値する!」


 ネコムネの声には雷鳴のような響きがあった。

 だが、ふとその鼻がひくつき、目が細くなる。


「……この匂い、覚えておるぞ。おぬし、瑠散か」


「は、はい! お久しぶりです師匠!」


 ネコムネはしばらく睨んでいたが、やがてフッとため息をついた。

 そして小太刀を鞘に戻すと、毛並みを一度なでつけた。


「ふう……まったく、毛繕い中は集中しておるのだ。驚かすでない」


「す、すみません! 二度としません!」


 瑠散が平伏したまま叫ぶと、師匠は床の猫缶を拾い上げた。


「これは昨夜の高級マグロ味。まだ片付けておらなんだか……」


 その言葉に、瑠散の中で何かが崩れた。

(高級マグロ味!? そんなの食べてたの!?)


 だが、ネコムネは意に介さず、再び日向へ戻ってペロリと舌を動かす。


「戦士である前に、猫である。毛並みを整えずして何が剣士か……ペロペロ」


 完全にマイペースだった。


 瑠散はそろそろと後ずさり、扉へ向かう。

 師匠の機嫌が直っているうちに出てしまわなければ――。


 だが、扉に手をかけた瞬間、低い声が背後から飛んできた。


「少年よ」

「は、はいっ!?」

「毛繕い中は、声をかけてから入るように。驚くと、爪が出る」

「き、気をつけます!」


 ネコムネは少しだけ間を置き、耳をぴくりと動かした。


「それと……」

「それと?」


 師匠は視線をそらし、少し照れたように喉を鳴らした。


「毛繕いしている姿を……見られるのは……恥ずかしいのだ。内緒にしておけ」

「も、もちろんです! 墓まで持っていきます!」


 瑠散がそう答えると、ネコムネは満足げに頷き、またペロペロと毛を舐め始めた。


「よろしい。……では尻尾の先を整えるとしよう。毛刃流、心は毛に宿る」


 部屋を出た瑠散は、深く息を吐いた。

 トラップを避けるよりも、師匠の機嫌を取る方が何倍も命がけだった。


 数日後。


 瑠散が千田さんの家で事情を話すと、千田さんはお茶をすすりながら笑った。


「あの子、昔からそうなのよ。

 毛繕いしてるときは誰が呼んでも出てこないの。

 子猫の頃からずっと」


「そうだったんですか……じゃあ俺、完全に地雷踏み抜いてたんだ」


「うふふ。でも、ネコムネさんに怒られただけで済んだなら運がいいわね。

 前に周東さんなんて、毛繕い中に抱っこしようとして――」


「して?」


「背中に猫爪十字斬を食らって、三日寝込んだのよ」


 瑠散は言葉を失った。

 毛繕い中の猫に触れるという行為が、命懸けの修行になるとは思わなかった。


 それからしばらくして、塔の掲示板に新しいお知らせが貼られた。

 木製の看板には、千田さんの手書きでこう書かれていた。


 『毛繕い中:立入禁止(猫の尊厳を守りましょう)』


 イラストは、得意げに毛を舐めるネコムネ師匠の姿。

 その下には小さく署名がある。

 ―毛刃流・ネコムネ・タマ次郎―


 さらに後日、塔の学舎では新しい道徳教材が配布された。

 タイトルは『毛繕い中に近づいてはならない七つの理由』。


 1. 集中が途切れると毛並みが乱れる

 2. 驚くと毛が逆立つ

 3. 恥ずかしい

 4. 爪が出る

 5. 舌を噛む

 6. 無防備を見られたくない

 7. 猫としての尊厳に関わる


 この七箇条は、あっという間に子どもたちの間で話題となり、

 特に第七条「猫としての尊厳に関わる」はクラスで大流行。


「ネコムネ師匠の尊厳」は千田界流行語大賞を受賞した。

 街の子どもたちはふざけて毛繕いの真似をしながら、「尊厳を守れー!」と遊ぶようになったという。



 その日の夕暮れ。

 トラップ部屋では、今日も変わらぬ日常が続いていた。


 西陽が畳を照らし、風が紙風鈴を揺らす。

 その中心で、ネコムネ師匠は静かに毛繕いをしていた。


「ふむ……今日の尻尾のツヤ、実に良し。やはり、日々の努力が毛を裏切らぬな」


 部屋の片隅には、あの日の猫缶が磨かれて飾られている。

 金色の縁に、墨でこう記されていた。


 ――『尊厳の証』


 ペロリ。

 師匠の舌が再び毛をなでる。


「毛刃流の第一奥義、それは己の毛並みを知ることである」


 その言葉は、いまや千田界全土の猫たちに受け継がれている。


 そして今日も、誰かが毛繕いをしている。

 自らの誇りと尊厳を守るために――。

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