第7話 鮭とチダプール決闘!?

「誰かァァァ!オレと勝負しようってヤツはいねえのかァ!!」


 朝から突然、叫び声が響いた。


 僕――瑠散はパラソルの下で本を読んでいた。

 いや、読んでいたはずだった。


「……また始まった」


 溜息をついて顔を上げると、チダプールの中心で水しぶきが上がっている。


「瑠散くん、また変なのが来たわよ」


 隣で寝転んでいた折茂さんが、サングラス越しに言った。

 リゾート椅子に寝そべり、魔法ドリンクを傾けている。


「変なのって……」

「ほら、あれ」


 折茂さんが指差す先には——鮭がいた。

 体長一メートル、銀色の鱗が七色に輝き、眉毛のような海苔がきりっと決まっている。


「鮭が……喋ってる……?」

「喋ってるわね」

「ボク、シャケノスケっていいます!北の海から泳いできました!」


 鮭が胸を張って名乗った。


 胸って、どこ?


 千田界、それは不思議の花が咲き、不条理な魚が跳ねる異世界だ。

 理屈もロジックも、たまに道に迷う。

 そんな世界の中央に、地元民が「チダプール」と呼ぶ池がある。


 湖でも沼でもなく、ましてやプールでもない。けれど泳げる。

 しかも時々、鮭が喋る。

 それがこの世界ではいつものことだった。


 水質は魔法で常に清潔、深さも年齢に合わせて自動調整される。

 子どもでも安心して泳げる――千田界の夏の象徴だ。


 朝の光が水面を照らす。

 パラソルが並び、浮き輪がぷかぷか。

 レモングラスの香りが風に混じる。

 そして今日も、ひときわ目立つ声が響いた。


「誰か泳ぎで勝負してください!負けた方は、相手の言うことを一つ聞く!」


 シャケノスケが高らかに宣言する。


「あら、面白そうじゃない」


 千田さんが現れた。肩に派手なバスタオルを掛け、「チャンピオン」と刺繍されたハッピを羽織っている。


「千田さん、まさか……」

「受けて立つわ!」


 千田さんが即答した。


「本当に!?」


 シャケノスケの目が輝く。


「ええ。でも勝ったら、あなたを焼き鮭にさせてもらうわよ」

「ひぃっ!?」

「冗談よ、冗談」


 千田さんがにっこり笑う。

 怖い。笑顔が怖い。


「審判は瑠散くんと五十嵐さんね!」

「え、僕!?」

「問題ないわ。旗を振るだけよ」


 五十嵐さんが優雅に微笑み、フラッグを掲げた。


「多分ね!」

「多分って何ですか!?」


 荻野さんもスムージー片手に現れた。


「あら、面白そうね。私も見るわ」

「荻野さんまで……」


 気づけば、チダプールの周りに観客が集まっていた。

 妖精たちが小旗を振り、応援の声が高まっていく。


「いけー、千田さんー!」

「シャケノスケさんも頑張ってー!」

「どっちも応援するんかい」


 僕がツッコむ。

 魔法で光るスタートラインが水面に浮かんだ。


 千田さんとシャケノスケが並ぶ。


「位置について……」


 五十嵐さんが旗を構える。


「よーい……」


 空気が張りつめる。


「ドン!」


 ぱしゃああん!

 二つの影が水を切った。


「速い!」

「千田さん、本気だ!」


 千田さんのバタフライは完璧だった。

 水が花びらのように舞い、太陽を反射する。


 シャケノスケも負けていない。尾びれでS字を描き、信じられない速度で進む。


「やるじゃない、鮭のくせに!」

「ボクは鮭だからこそ、泳げるんです!」


 二人の掛け合いが聞こえる。


「面白い勝負になってきたわね」


 折茂さんが身を乗り出した。

 半分を過ぎたところで、千田さんがぐっと加速した。


「焼き鮭を食べるためには、泳ぎきらなきゃいけないのよオオオ!!」


 千田さんの背中に、炎のようなオーラが立ちのぼる。


「すごい……」

「これが千田さんの本気……」


 観客たちが息を呑む。

 だが、シャケノスケも諦めていなかった。


「この戦いに負けたら……次の煮付けはボクかもしれない!」


 シャケノスケが吠えた。


「生殺与奪の権を、他人に握らせるなーッ!!」

「その台詞、どっかで聞いたような……」


 僕が呟く。


「気にしたら負けよ」


 荻野さんが笑う。

 シャケノスケの鱗がきらめき、水を割って進む。

 その背に、過去の影が見えた。


「父さん……母さん……」


 シャケノスケの両親は、産卵の川上りの途中で捕まったという。

 そして、美味しくいただかれた。


「だからこそ、泳ぐんだ!生き抜くために!」


 シャケノスケの気迫に、千田さんがにやりと笑う。


「いい根性してるじゃない!」

「千田さん!?」

「だからこそ、全力で行くわよーっ!」


 水面が爆ぜた。


 二人の泳ぎはもう泳ぎではなく嵐だった。


「すごい……」

「これは……歴史的一戦ね……」


 折茂さんがワインを傾けながら呟く。

 妖精たちが歓声を上げ、水しぶきが虹を作る。



 そして——


 ドンッ!


 ふたり同時にゴール板へタッチした。


「こ、これは……」


 僕は思わず叫ぶ。


「引き分け!?」

「引き分けです!」


 五十嵐さんが宣言した。

 観客席から大きな歓声が上がる。


「やったー!」

「すごい勝負だった!」

「いい勝負だったわね……」


 千田さんが泡を吹きながら笑う。


「あなたも……強かった……」


 シャケノスケも息を切らしながら答えた。


「ねえ、シャケノスケくん」


 千田さんが優しく問いかける。


「何で泳ぎの勝負を挑んだの?」

「それは……」


 シャケノスケは少し黙った。


「ボク、証明したかったんです」

「証明?」

「鮭は、ただ食べられるだけの存在じゃないって」


 シャケノスケの目が真剣だった。


「泳げるし、喋れるし、頑張れる。それを、みんなに知ってもらいたかった」


「……そっか」


 千田さんは笑って、シャケノスケの頭を撫でた。


「あなた、立派よ」

「本当っすか!?」

「ええ。でも私はまだ、焼き鮭が好きよ」

「えっ……」

「冗談よ、冗談」


 千田さんが笑う。

 シャケノスケも笑った。


「ボクも……ちょっとだけなら塩焼きになってもいいかも」

「本当に!?」

「でもやっぱり、泳いでる方が好きだな」


 ふたりは笑い合った。

 プールが拍手で包まれた。


 妖精たちが花火を上げ、スイカが割られ、魔法スピーカーから八木節が流れる。


「なんで八木節なの!?」


 僕がツッコむ。


「千田界の定番BGMよ」


 折茂さんが涼しい顔で答える。


「定番って……」


 荻野さんはスムージーをおかわりし、五十嵐さんは写真を撮っている。


 その真ん中で、千田さんが宣言した。


「今日から君も、千田界の住人よ!」

「え、本当に!?やったぁ!」


 シャケノスケが飛び跳ねる。


「でも時々は、焼き鮭にもなってもらうかもね」

「えっ……」

「冗談よ、冗談!」


 笑い声が広がった。

 夕暮れの光が水面を染める。

 僕はパラソルの下で、その光景を眺めていた。


「いい一日だったな」

「そうね」


 折茂さんが隣で頷く。


「千田界は、いつもこんな感じよ」

「おかしくて、温かい」

「そうそう」


 僕は笑った。


(ああ、やっぱりこの世界、嫌いになれないな)



 それからというもの、毎年チダプールでは「おばちゃん vs 鮭 水泳大会」が開かれるようになった。


 大会ポスターには、こう書かれている。

『バタフライに年齢制限はない!種族制限もない!』


 シャケノスケは今も元気に泳いでいる。


 時々、千田さんと勝負して、時々負けて、時々勝つ。


 そして池のそばには、千田さん直筆の看板が立っていた。

『チダプール利用規約:1. 騒がない 2. 走らない 3. 鮭とは敬語で話すこと』


 そして夜になると、みんなで焼き鮭を食べる。


「ボク、やっぱり泳いでる方が好きだな」

「でも美味しいでしょ?」

「それは……認めます」


 笑い声が響く。


 今日もチダプールは平和だ。


 ちょっとおかしくて、すごく温かい世界。

 僕はその中心で、笑いながら思う。

 この世界で、僕は確かに変わった。


 焼き鮭を通して、仲間を得た。

 家族との時間も、取り戻せた。


 そして今——


「瑠散くん、次は君が泳ぐ番よ!」


 千田さんが叫ぶ。


「え、僕!?」

「そう、君!さあ、準備して!」

「ちょ、ちょっと待って!」


 僕は慌てて立ち上がった。


 シャケノスケが笑っている。


「瑠散さん、一緒に泳ぎましょう!」

「うん、泳ごう!」


 僕は笑顔で答えた。

 水しぶきが上がる。

 笑い声が響く。


 千田界の一日は、今日も平和に続いていく。

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