異世界で焦げない鮭を焼くまで帰れません
たかつど
第1話 焦げた鮭と金色のローブのおばさん!?
「異世界召喚の理由が『鮭が焦げたから』だった——」
そんなバカな話、信じられるか?
でも実際、俺はそういう理由で異世界に召喚されたのだ。
いや、正確には——隣のおばさんの家の裏口から。
その日、俺、
煙。油。涙。
コンロの上は戦場、いや、もはや焼け野原だった。
「……また焦げた。なんでだよ……!」
換気扇は悲鳴をあげ、台所全体がサバイバル状態。
天井には煙がもくもく、床には魚の皮がひらひら。
二階から妹の声が降ってくる。
「お兄ちゃん、また焦がしてる〜! 消火器使う〜?」
「使うな! それは最終手段だ!」
母は仕事で不在。妹は受験生。
俺は一人、焦げた鮭の前で人生に迷っていた。
「火加減ってなんだよ……。人類、どうやってこれ克服したんだよ……」
独学で料理を始めたばかりの俺には、焼き加減というものがまるでわからなかった。
タイミングを間違えれば焦げ、早すぎれば生焼け。
コンビニ弁当に戻る自分が悔しかった。
……そのときだった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
玄関を開けると、そこには隣の
ただの近所のおばさんのはずだった。
だが今日の彼女は、明らかに違った。
金色のローブ。
先端が光る杖。
とどめに三角帽子。
どう見ても魔法使いである。
「あなた、鮭がうまく焼けないんですってね?」
開口一番、それである。
「……え?」
なぜ知ってる。いや、煙の量で察したのか。
「うちの換気扇、煙に反応するのよ」
千田さんはにっこり笑った。
「かわいそうに。そんなあなたに——鮭焼き修行のために異世界を紹介してあげるわ」
「……異世界?」
「そうよ。大丈夫、歩いて五分で帰れるからよ」
軽い。あまりにも軽い。
通常であれば、これは不審者の妄言で済まされるはずだ。
しかし瑠散は知っていた。
この町で、
夜中に屋根から光が漏れたことがあるし、庭には常識では育たないはずの植物が生えている。
母も「あの家は何かただごとではない」と言っていた。
でもその時の俺は、焦げた鮭と共に人生の底にいた。
もはや何でもいい。
もし本当に鮭が焦げない世界があるなら、行ってみたい。
「行きます」
「まあ、素直ね。じゃあスリッパのままでどうぞ」
こうして俺は、スリッパのまま異世界へ旅立った。
高い塀に囲まれた敷地の奥には、見たこともない形の植物が密生していた。
紫紺色の花をつけた背の高い木、光るコケのようなもの、そして空中に浮かぶ水の玉。
現実の規則が緩んでいるような場所だった。
「ここから先は、私の異世界、
千田さんが指したのは、重厚な木製の扉だ。表面には見たこともない文字が刻まれている。
千田さんが杖で扉をタッチすると、それは静かに開いた。
眩しい光が漏れ、空気が変わる。
その中に足を踏み入れると、俺は息を呑んだ。
そこは——魔法の広間だった。
天井は異様に高く、宙に浮かぶシャンデリアから淡い光が落ちている。
ソファは浮遊し、テーブルも時折位置を変える。
壁に掛けられた絵画からは、貴族らしき人物が手を振っており、植木鉢は「ようこそいらっしゃいました」と丁寧にお辞儀をしてくる。
「ようこそ、
千田さんが笑った。
「ここは、他人から見たらしょーもない事だけど、それでもソレを極めたい者が導かれる異世界よ」
「……そんな世界、いる?」
「いるのよ。主婦の執念を甘く見ないことね」
恐ろしい説得力だった。
「地下には炎の塔があるダンジョンもあるわ」
「おや、新入りかね」
声がした。
どこからかと思えば、空中を漂う——トースターが喋っていた。
「ぼ、僕の名前はトトス。浮遊トースター兼、焼き加減アドバイザーだ」
「トースターがしゃべってる!?」
「珍しくもなんともない。で、君の焼き鮭、ひどい出来だったね」
「見たの!?」
「焦げすぎ。火加減ゼロ点。心が荒んでいる証拠だ」
「うるさい!」
「火を制する者は人生を制す。覚えておけ」
なにそのポエム。
「トトスはちょっと神経質なのよ」
千田さんが紅茶を飲みながら言う。
「神経質? 僕は真面目なんだ!最近の召喚者は心が焦げてるんだよ!」
トトスはカタカタ震えながら火花を散らした。
「焼き加減は、心のバランス! 怒れば焦げ、怯えれば生焼け! 理解できるか!」
「わかるかそんなもん!」
「だから僕の情緒が不安定になるんだああああ!!」
「落ち着けぇぇ!」
広間に響く叫び。
その横で、千田さんだけが笑っていた。
「ふふ、仲良くなれそうね」
「どこが!?」
「大丈夫よ。今日からあなたは焼き鮭修行に入門です」
「修行て!」
「うまく焼けたら帰れるわ。でも焦げたらまた召喚される呪い付き」
「呪い!?」
笑顔で言うなぁぁ!
それから三日。
俺は千田さん家で、トトスにしごかれていた。
初めて、瑠散は真剣に焼き鮭と向き合った。
トトスの指導は厳しかった。
火加減について、タイミングについて、焼き面の観察について。
全てが論理的で、全てが必然だった。
「もっと心を込めろ!焼くとは魂の詩だ!」
「詩で魚は焼けねぇぇぇ!」
「感情を制御できない者に、焼き加減は見えない!!」
「真面目に聞いて損をした、理屈が飛んでんだよ!!」
修行というより暴走トースターとの口論だ。
瑠散はこの時点で、全ての常識を手放していた。
火の精霊たちは俺の周りをくるくる回りながら囁く。
『焦がせ焦がせ……火を恐れるな……』
「呪文唱えるなあああ!」
それでも、少しずつコツがわかってきた。
火を見て、音を聞いて、匂いで判断する。
初めて成功した時、トトスが涙(の代わりにスパーク)を流した。
「やればできるじゃないか、瑠散!君の火が優しくなった!」
「火が優しいってなんだよ……」
「それが料理だぁぁぁ!」
うるさいけど、ちょっと嬉しかった。
休憩中、俺は聞いた。
「トトス、お前、なんでトースターなの?」
「……もとは、火の守護者の弟子だった」
トトスの声が少し低くなった。
「偉大な炎の守護者のもとで究極の焼き加減を学んでいたんだ。
でも、ある日、焦がしたパンを出してしまってね……守護者の怒りでトースターにされた」
「守護者、厳しすぎない?」
「……僕にとって、焦げは罪なんだ」
そう言ってトトスは、静かに火を灯した。
なんかちょっと泣ける。
「さあ、今日こそ完璧に焼き上げなさい!」
トトスが叫ぶ。
目の前には鮭の切り身。
火がゆらめく。心を整える。焦るな、焦るな。
ジュッ……!
香ばしい匂いが広がる。皮がパリッと音を立てた。
「……できた」
トトスが息を呑む(トースターなのに)。
「見事だ……外は香ばしく、中はふっくら……! これぞ究極の焼き鮭!」
千田さんが拍手した。
「おめでとう、瑠散くん。これであなたは『お魚クラス』に昇格よ!」
「称号いらねぇ!!」
「じゃあ帰りましょう。歩いて五分で帰れるから」
「軽いなぁぁ!!」
──こうして俺は、焦げない鮭を焼き上げ、
『お魚クラス』として現実世界に帰還した。
……のだが。
翌朝。
家で焼いた鮭は、ほんの少しだけ焦げていた。
そして、玄関のチャイムが鳴る。
ピンポーン。
ドアを開けると、金色のローブの千田さんが立っていた。
「おはよう、二回戦、行きましょうか?」
俺は、絶望の表情でスリッパを履いた。
「……行きます」
こうして、俺の終わらない焼き鮭修行が、再び幕を開けた。
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