EP.3
倉庫を出るころには、太陽はもう真上にあった。露店には人があふれ、熱気と陽の光が混ざって朝の寒さは跡形もない。
俺たちは、はぐれないように手を繋いで、人波をすり抜けて、石畳を小走りに丘の上の教会を目指す。
だが、教会の敷地に足を踏み入れた途端、今までの温かな光はどこか遠のき、空気がひんやりと沈んだ。
教会が祈りをささげるための静謐な場所だからではない。人の気配がしないくらい、荒れていたからだ。
色あせた花壇、伸び放題の雑草、ひび割れたステンドグラスに穴の空いた天井。教会を管理する神官は一体何をしていると批難したくなる景色に、俺は無意識に舌を鳴らしていた。
何だか嫌な予感がする。
「不気味、ですわね」
エウレカも同じことを思ったのだろう。彼女はシメイの腕に身を寄せた。
「そうだね。マシュー、本当に中へ入るのかい? この様子だと、あの女の子がここにいるとは思えないんだけど」
エウレカの頭を撫でながら、シメイは不安そうな眼差しを寄越す。
「俺も同感だ。だが、俺は第五教区の君主になる身だ。この荒れ果てた教会を放ってはおけない。確かめて、父上に報告しなくては」
「マシュー……。うん、わかったよ。きみが行くならおれも行こう」
「私は行きたくないです! でも、こんなところで置いていかれる方がもっと嫌ですわ!」
エウレカは恨めしそうに俺を睨んだ。
「決まりだな」
俺は建付けが悪い木製の扉を開いた。俺の後ろにエウレカ、最後尾にシメイという陣形だ。
建物の中は外の何倍も酷かった。廊下のあちこちにガラスが散乱していたり、礼拝堂の椅子が真っ二つにへし折られていたりする。加えて、壁や床には血がべったりと付着していた。
だが、最も印象的だったのは、ずたずたに切り裂かれた女神の聖画像だ。いくら神が嫌いだったとしても、俺でもこんなことはしない。あまりにも罰当たりだ。
「人が住まなくなって荒れたというよりは、何者かに荒らされて住めなくなったみたいだな」
俺は目の前を走る黒光りする虫を踏みつぶした。
「ここを襲った人物は教会に強い恨みを持っているに違いない」
「よく悠長に推理できますわね! こんな汚い所、もう帰りたいです」
エウレカは今にも泣きだしそうな声で叫んだ。そういえばこいつは虫が大の苦手だったっけ。
「帰りたいなら勝手に帰れ。ただし、俺はまだ調査を続けるぞ。二階が残っているからな」
「お兄様のバカッ! 人でなしのろくでなし!」
「まあまあエウレカちゃん落ちついて」
俺の背中を力いっぱい叩くエウレカの手をシメイが止める。
シメイはエウレカの肩に止まった虫を追い払いながら、「でも」と続けた。
「おれも長居したくはないな。それよりも、枢機卿――きみたちの御父上に頼んで、使徒を動かしてもらった方が良いと思う。だから、さっさと調査を終わらせよう」
抱き着くエウレカの腕をやんわりと引きはがし、シメイが二階へと続く階段に足を延ばした時だ。
ガタッと二階から何かが倒れる音がした。続いて、ドタドタと何かが走る足音。
「誰かいるのか!?」
反射的に俺は叫んでいた。返事は無かった。けれども、それは俺たちの存在に気付いた誰かが、息を殺して隠れているという事実の裏返しでもある。
「シメイ、行くぞ」「うん」
俺たちは顔を見合わせて、階段を駆け上がった。「待ってください!」と半べそをかきながら、エウレカも後に続く。
「多分ここだよね」
螺旋階段を登って廊下を右に曲がり、突き当りの一室。その扉の前で俺たちは足を止めた。
他の部屋とは違い、ここは絵の具をぶちまけたように赤黒く汚れている。加えて、何かが腐ったような異臭が鼻をついた。足先に広がる茶色く濁った水たまりを見て、「この先に立ち入ってはいけない」と脳内で警報が鳴り響く。
だが、俺は迫りくるただならぬ気配を振り払って、シメイの肩を叩いた。
「入れそうか?」
「いや、鍵がかかっているね」
シメイは首を横に振った。俺は右手に意識を手中させた。開かないなら、氷の塊をぶつけて破壊するまでだ。
しかし、詠唱を口にしようとする俺の口を、シメイは手で塞いできた。何をする、と彼を睨みつけるが
「やめた方が良い。きみの神術は強力すぎて、きっと部屋の主ごと氷漬けにしてしまうよ」
と、シメイは俺を押しのけた。
「おれに任せて。たまには役に立ってみせるから」
そう言ってシメイは一歩だけ後ろに下がり、息を短く整えた。鞘から剣を抜き、蝶番に刃をねじ込んで壊す。
そして、ふっと短く息を吐きながら、渾身の力で扉に蹴りを叩き込んだ!
鈍い破裂音とともに木片がぱらぱらと剥がれ落ちる。扉は悲鳴のような軋みを上げて内側へ押し開かれた。それと同時に、中から黒い何かがバサバサバサッと飛び出てきて、俺たちの頭上を通り過ぎていった。
「ひどい匂いだな」
俺は鼻をつまみながら、先を行くシメイの背中を追った。俺は脳内で見た物を記述する癖があるが、思わず記録を躊躇うくらいには、想像を絶する光景であった。
そんな、湿気と腐臭がねっとりと絡みついて空間の中心に、彼女はいた。
赤い十字架に質素なローブ。水鏡で見た少女は、フードを深くかぶり、まるで外界を拒むように身を丸めていた。
「あなたですのね、塩を盗んだ犯人は! さっさと返して下さりませんか?」
淀んだ空気に耐えられなくなったエウレカが、普段の彼女からは想像もできないほど強い語気で怒鳴り散らした。少女はびくりと体を震わせて、おずおずと顔を上げた。薄汚れたそばかす顔は恐怖に支配されていた。
「お兄さんたちは使徒……? やめて! 先生を連れて行かないで!」
少女は傍らにいた黒い塊に抱き着いた。今までゴミだと思っていたそれは、どうやら生きていたらしい。
ぼこっ、ぼこぼこっ、と不気味な泡を吹き出して、カエルの卵のようなつぶつぶの液体から、人の形へと姿を変えていく。蠢く黒い塊は、少女に応えるように抱擁する。
そして、ひとしきり少女を堪能すると、ぎょろっとした赤い大きな目玉をこちらへ向けた。
目玉に刻まれた逆さまになった十字架で俺は気が付いた。
「離れろっ!」
黒い塊がまた形を変えたのと同時に、俺はエウレカの腕を掴んだ。あっけにとられる彼女を思い切り抱き寄せて、シメイに押し付ける。
どうして気づかなかった? どうして、この教会を荒らしたのが人間だと思い込んでいた? 己の考えの至らなさが後悔となって押し寄せてくる。
だが、引き返すには遅すぎた。俺は、蠢く黒い塊から生えた巨大な手から身を守るべく、呪文を唱え、咄嗟に氷のドームを作った。分厚い壁に阻まれて、バチンッと拳が跳ね返される。
しかし、黒い塊にとってそれはかすり傷にもならないようだ。奴はすぐに攻撃の体制に戻った。
「お兄様、あれはいったい何なのですか?」
ドームを維持することに集中するなか、洋服の裾が重くなった。違和感に目を向ければ、エウレカが震えた手で俺の服を引っ張っていた。
俺は氷の壁越しに黒い塊を睨みつけた。
「あれは【影】だ。かつては人であったが、神から生きる権利を剥奪された化け物だ」
「影は理性を失っている。だからおれたちの言葉は通じないし、無差別に人を襲うから危険なんだよ」
【影】との攻防を繰り広げる俺の代わりに、シメイが言葉の後を引き取る。
「マシュー、ここは一事退却しよう。危険すぎる!」
「それが出来たら苦労しない。クソッ。もう持たない!」
そうこう言っている間にも、【影】はドームへを殴り続けている。いくら俺の神術が一流だとしても限度がある。こうして何度も嬲られ続ければ、案の定。
ピキッと、大きなひびが一直線に走った。そこから木が枝分かれしていくみたいにひび割れは伝染し、あっという間に氷のドームは砕け散る。
「来るぞ!」
俺は声を張り上げた。ドームの崩壊を好機と見たのだろう。巨大な手は触手のような黒いうねりに姿を変え、俺たちめがけて勢い良く突っ込んでくる。シメイは触手を華麗に飛び越え、俺も床を転がることで何とか凌いだ。だが、エウレカは違った。
「きゃあっ!」
シメイのためにめかしこんだのが災いした。履きなれていない高いヒールの靴で走ろうとした結果、エウレカは転んでしまった! その隙をついて、触手が彼女に覆い被さる。
触手はあっという間に彼女を取り込んだ。喉が張り裂けそうな悲鳴など聞こえないとでも言うように、エウレカの存在を黒く塗りつぶしていく。
「エウレカちゃん!」「エウレカ!」
俺たちは揃って走り出していた。こうなったら仕方がない。完全にエウレカが取り込まれる前に殺してやる!
俺は自分が知っているなかで一番強力な神術の詠唱を始める。シメイは剣を抜いて攻撃の構えをとった。
「凍てつく因子よ、神の回路より解き放たれ、万物の鼓動を凍結せよ!――絶対零度!」」「はああああああっ!!」
まず初めに攻撃を仕掛けたのは俺だった。
俺が呼び寄せた吹雪は、凄まじい勢いで触手とそれを動かす黒い塊を包み込み、瞬くうちに彫像の如く氷漬けにした。それを合図にシメイは高く飛び上がった。そのまま触手の先端まで駆け上がって、エウレカが拘束されている部分を切り落とす。シメイは流れるように全身を切り刻み、【影】を解体していった。
「回収完了だ」
空から降って来た氷の塊を抱きかかえて、俺はふうっと息を吐いた。
「お兄様ぁっ……ううっ」
エウレカは涙で視界を滲ませていた。白磁の柔肌に一筋の雫が伝う。一度流れてしまったものは止まらないらしく、抑えていた感情は堰を切って溢れるように泣き出した。
まったく、鼻水まで垂らすなんてスロウス家の令嬢らしくない。
だが、怖い思いをさせてしまったのは俺が油断したせいだ。今だけは服がどんなに汚れても許してやろう。
俺はサラサラのブロンドの髪を優しく撫でた。少し離れたところで、シメイは安心と切なさが入り混じったような眼をしていた。
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