第4話「競合他社という進行不能エラー」
月曜日、午前9時。スタジオ・ピクセルのオフィス。
いつものように出社した柑奈と九条だったが、オフィスの空気が異様に重いことに気づいた。
スタッフ全員が、険しい表情でモニターを見つめている。いつもなら聞こえるはずの、キーボードの打鍵音や雑談の声が、一切ない。
「……おはようございます」
九条が挨拶すると、美波が振り返った。その表情は、いつもの明るさを失っていた。
「九条、柑奈……見た?」
「何をですか?」
「これ」
美波が、自分のモニターを指差す。
そこに表示されていたのは、大手ゲーム会社「エデン・ソフト」の公式プレスリリースだった。業界ニュースサイトのトップに、大きく表示されている。
【緊急発表】エデン・ソフト、新作恋愛シミュレーション『エターナル・ラブ』を発表
テーマ:「運命のアルゴリズム」
発売予定日:20XX年6月15日
開発予算:5億円
豪華声優陣、有名イラストレーター起用
「これまでにない、究極の恋愛体験を提供します」(開発責任者コメント)
柑奈と九条は、その文字を見て、血の気が引くのを感じた。
「運命の……アルゴリズム……?」
「発売日が……同じ……」
スタジオ・ピクセルの『ラブ・アルゴリズム』も、発売予定日は6月15日だった。テーマも、ほぼ同じ。まるで、こちらの企画を盗み見たかのような一致。
柑奈の脳内に、警告が表示される。
(――【CRITICAL ERROR】競合製品の出現。市場の分断。売上予測、大幅下方修正。プロジェクト成功率、20%以下に低下)
九条の思考にも、悪いフラグが立つ。
(――【BAD END ROUTE】強力なライバルの登場。物量で圧倒される展開。このままでは……)
「詳細、見た?」
美波が、画面をスクロールする。
【『エターナル・ラブ』企画詳細】
• 開発予算:5億円(業界最高水準)
• 開発期間:2年(既に1年経過、残り1年で完成予定)
• スタッフ:100名以上の精鋭チーム
• 豪華声優陣:人気声優10名以上を起用
• 有名イラストレーター:SNSフォロワー100万人超の人気絵師を起用
• プロモーション予算:1億円(テレビCM、Web広告、雑誌タイアップ、声優イベント)
• フルボイス、フルアニメーション、豪華特典多数
圧倒的な物量だった。スタジオ・ピクセルの予算は、1000万円。スタッフは10名。開発期間は3ヶ月。
全てが、桁違いだった。
午前10時。緊急企画会議。
会議室に集められたスタッフ全員が、暗い表情で座っている。
社長の氷室が、深刻な表情で全員を見渡した。
「見ての通りだ。エデン・ソフトが、同じテーマ、同じ発売日で、恋愛ゲームをぶつけてきた」
氷室は、エデン・ソフトの企画書をモニターに映し出した。その内容は、先ほどのプレスリリースよりもさらに詳細で、絶望的だった。
「予算は僕たちの50倍。人員は10倍。開発期間も、向こうは2年かけてる。プロモーションにも、1億円かける予定だ」
氷室の声は、いつもの軽さを失っていた。
「正直に言う。このままじゃ、勝てない。いや、戦いにすらならない」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
「……勝てるわけ、ないじゃん」
美波が、絶望的な声で呟いた。
「予算も、人員も、時間も、全部向こうが上。私たち、どうすればいいの……」
デザイナーの田中も、頭を抱えた。
「同じ発売日なんて、最悪だ。メディアも、ユーザーも、全部向こうに流れる。僕たちの『ラブ・アルゴリズム』なんて、誰も見向きもしない」
プログラマーの佐藤も、諦めたような顔をしている。
「エデン・ソフトは、業界大手だ。流通も、宣伝も、全部向こうが有利。僕たちのゲームが店頭に並ぶ保証すら、ない」
オフィスに、絶望の空気が満ちていく。
柑奈も、九条も、何も言えなかった。
柑奈は、データを分析していた。エデン・ソフトの過去の売上実績、市場シェア、ユーザー評価。全てが、圧倒的だった。
(――この状況で勝つ確率は……5%以下。いや、3%か。論理的に考えれば、撤退が最善手。このまま開発を続けても、会社の資金を消耗するだけ)
九条も、シナリオ設計者として、この状況を分析していた。
(――これは、バッドエンドへの一本道。選択肢がない。どう足掻いても、物量で圧殺される。このルートに、勝利の可能性は……)
その時、氷室が口を開いた。
「……確かに、物量では勝てない」
全員が、氷室を見た。
「予算も、人員も、時間も、全部向こうが上だ。テレビCMも打てない。有名声優も起用できない。僕たちにできることは、限られてる」
氷室は、一瞬だけ目を伏せた。
「正直、怖い。このプロジェクトが失敗したら、会社は終わりだ。みんなの仕事も、僕の夢も、全部終わる」
誰も、何も言えなかった。
氷室の弱音を聞くのは、初めてだった。
しかし、次の瞬間、氷室は顔を上げた。その目には、いつもの輝きが戻っていた。
「でも、勝つ方法は、一つだけある」
全員が、氷室を見た。
「僕たちにしか作れないゲームを、作ることだ」
「でも、それって……」
「具体的には、何を……」
氷室は、柑奈と九条を見た。
「君たち二人が、本物の恋をすることだ」
「「……え?」」
氷室は、真剣な表情で続けた。
「エデン・ソフトの開発チームは、全員がプロだ。予算も潤沢で、技術も高い。でも、誰も本物の恋愛を体験しながら作ってるわけじゃない。データと理論と、過去の成功例から作られたゲームだ」
氷室は、二人に近づいた。
「でも、君たちは違う。今、リアルタイムで恋愛を体験している。ぎこちなくて、予測不能で、失敗だらけで、でも、だからこそ本物の恋愛だ。そのリアルさこそが、僕たちの唯一の武器だ」
柑奈と九条は、顔を見合わせた。
氷室は、全員を見渡した。
「エデン・ソフトには、豪華な声優がいる。綺麗なイラストがある。莫大な宣伝予算がある。でも、僕たちには、心がある。本物の感情がある。それだけで、勝負できる」
氷室の言葉に、オフィスの空気が少しだけ、変わった。
「僕は、信じてる。君たちの作るゲームが、誰かの心を動かすことを。大手には作れない、小さな会社だからこそ作れる、温かいゲームを」
その時、九条が立ち上がった。
「……社長の言う通りです」
全員が、九条を見た。いつもの冷静な彼が、珍しく熱を帯びた声で話し始める。
「僕は、これまで完璧なシナリオを書くことに執着してきました。データを分析し、成功例を研究し、計算通りに物語を組み立てる。それが、正しいと思っていました」
九条は、柑奈を見た。
「でも、昨日のデートで気づいたんです。僕の完璧なマニュアルは、全く役に立たなかった。50ページの努力は、全て無駄になった」
会議室に、微かな笑いが漏れた。
「でも、それでよかったんです。シナリオ通りにいかなかったからこそ、見えたものがあった。穂積さんの、予測不能な魅力。計算できない笑顔。データにならない温かさ」
柑奈は、驚いた顔で九条を見つめた。
九条は、全員に向き直った。
「恋愛には、シナリオ通りにいかない面白さがある。予測不能なドキドキがある。失敗して、ぎこちなくて、でもだからこそ心が動く。それこそが、本物の恋愛の魅力だと、僕は気づきました」
その言葉に、スタッフたちの表情が変わっていく。
「僕たちには、僕たちにしか作れないゲームがあるはずです。予算や人員では勝てないかもしれない。声優もイラストも、向こうには敵わないかもしれない。でも、心を込めて作ったゲームは、必ず誰かの心に届く」
九条は、拳を握った。
「僕は、エデン・ソフトに勝ちたい。大手に、小さな会社の意地を見せたい。そのために、僕のシナリオの全てを賭けます」
美波が、立ち上がった。
「……そうだよね。私たちだって、負けてられない」
田中も、拳を握った。
「よし、やってやろうぜ! 大手に勝つってのも、面白いじゃん!」
佐藤も、笑った。
「エデン・ソフトの開発チーム、100人いるんだろ? 僕たち10人で、100人倒せば勝ちだな」
氷室は、満足げに笑った。
「よし、じゃあ全員で頑張ろう。このプロジェクトに、会社の未来がかかってる。いや、僕たちの誇りがかかってる」
会議の後、九条は柑奈を呼び止めた。
「穂積さん」
「何?」
九条は、深く頭を下げた。
「君の力が必要だ」
柑奈は、驚いた。九条が頭を下げるのを、初めて見た。いつも完璧主義で、プライドの高い彼が。
「僕一人では、エデン・ソフトには勝てない。君の発想が、君の視点が、君の予測不能さが、このゲームを特別なものにする」
九条は、顔を上げた。その目は、真剣だった。
「僕のシナリオの、常識を破壊してくれ。計算を超えた、本物の感情を教えてくれ」
柑奈は、少しだけ考えて、答えた。
「……分かったわ。でも、条件がある」
「何でしょう」
「あなたも、私のプログラムに、感情を入れて」
「感情……ですか?」
「そう。私のプログラムは、完璧だけど、冷たい。論理的だけど、温かみがない。あなたのシナリオには、計算されたロマンスはあるけど、本物の感情がない。それを、お互いに補い合いたい」
九条は、柑奈の目を見た。
その目は、いつもの冷たさではなく、真剣な熱を帯びていた。初めて見る、柑奈の情熱。
「……分かりました。僕の感情を、君のプログラムに入れます」
柑奈も、小さく笑った。
「私の論理を、あなたのシナリオに入れるわ」
二人は、初めて、対等なパートナーとして、手を握り合った。
その瞬間、二人の心臓が、また大きく跳ねた。
でも、今回は、それを無視しなかった。むしろ、その鼓動を、確かめるように握る手に力を込めた。
柑奈(心の声:この心拍数の上昇は……バグじゃない。これは、仕様だ。私の、新しい仕様)
九条(心の声:この予測不能な感情は……想定外じゃない。これは、必然だ。僕の、新しいシナリオ)
その日から、スタジオ・ピクセルの全員が、猛烈な勢いで開発を始めた。
オフィスは、朝から深夜まで、熱気に包まれている。
柑奈は、九条のシナリオを読みながら、プログラムを書く。
「このセリフ、もっと感情的にできない? 計算されすぎてて、冷たいわ」
「分かりました。では、こう修正します。『君がいない世界なんて、考えられない』」
「……それ、誰かに言われたことあるの?」
「いえ、でも……君に言いたいと思ったことなら」
柑奈の顔が、赤くなる。
「……それ、採用」
九条は、柑奈の提案を聞きながら、シナリオを修正する。
「この選択肢、予測不能にしてほしい。プレイヤーが驚くような、意外な展開を」
「了解。では、正解の選択肢を、一番目立たない場所に隠します。プレイヤーの予想を裏切る」
「……面白いわね。それ、昨日のデートみたい」
「昨日の……ああ、僕のマニュアルが全部無駄になったやつですか」
「そう。でも、あれが一番楽しかった」
九条の顔も、少しだけ赤くなる。
「……僕もです」
二人の作業は、驚くほどスムーズになっていた。以前は喧嘩ばかりだったのに、今は互いの意見を尊重し、補い合っている。
柑奈の論理が、九条の感情を形にする。
九条の物語が、柑奈のコードに命を吹き込む。
美波が、二人の様子を見て、ニヤリと笑った。
「お前ら、いい感じじゃん」
「何がですか」
「別に」
二人は、顔を見合わせて、同時に視線を逸らした。
深夜1時。オフィスには、柑奈と九条だけが残っていた。
「……疲れましたね」
九条が、椅子に背もたれに身を預けた。
「ええ。でも、いい感じに進んでるわ」
柑奈も、モニターから目を離した。
二人の作った、ゲームの最初のシーンが、画面に表示されている。まだ荒削りだが、確かな手応えがあった。
「穂積さん」
「何?」
「僕たち、勝てると思いますか? エデン・ソフトに」
柑奈は、少しだけ考えて、答えた。
「論理的には、厳しいわ。予算も人員も、全部向こうが上。勝率は5%以下」
「……そうですか」
「でも」
柑奈は、九条を見た。
「バグは、時に奇跡を起こす。予測不能なことが、最高の結果を生むこともある」
九条は、柑奈の目を見た。
「それって……」
「私たちの恋みたいに、ね」
その言葉に、九条は驚いた。
柑奈が、初めて「恋」という言葉を使った。
「……そうですね。僕たちの恋も、最初は失敗だらけでした」
「今もよ」
「でも、それがいい」
二人は、笑い合った。
九条が、手を差し出した。
「じゃあ、約束しましょう。僕たちは、エデン・ソフトに勝つ。そして、最高の恋愛ゲームを作る」
柑奈は、その手を握った。
「約束するわ。私たちは、絶対に勝つ」
握り合った手が、温かい。
二人の心臓が、シンクロするように鳴る。
窓の外、夜空に星が瞬いている。
柑奈(心の声:このバグは、もう修正しない。これが、私の新しい仕様だから)
九条(心の声:このシナリオは、もう書き換えない。これが、僕の新しい物語だから)
二人の戦いが、今、始まった。
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