第2話「契約恋人のデバッグ開始」

第2話「契約恋人のデバッグ開始」

翌日、午前10時。企画会議室。

ホワイトボードには、氷室が書いた企画書の要点が箇条書きにされている。

【プロジェクト『ラブ・アルゴリズム』概要】

• ターゲット:10代後半〜20代男女

• ジャンル:恋愛シミュレーション

• テーマ:「運命のアルゴリズム」

• 開発期間:3ヶ月

• 目標売上:10万本

その一つ一つが、柑奈と九条にとっては、理解不能な呪文のように見えた。

企画会議室の空気は、絶対零度まで冷え切っていた。

「そもそも、恋愛という感情自体がバグの集合体です」

柑奈は、腕を組んで断言した。彼女の目には、いつもの冷徹な分析の光が宿っている。デスクに広げられた資料には、昨夜徹夜で調べた恋愛ゲームの分析データが並んでいた。

「『一目惚れ』など、論理的根拠が著しく欠如した、仕様外の挙動に過ぎません。視覚情報だけで相手の内面を判断するなど、データ不足も甚だしい。サンプル数1、検証回数0。統計学的に見ても、完全にエラーです」

彼女は続ける。

「恋愛感情とは、ドーパミン、オキシトシン、セロトニンといった神経伝達物質の分泌異常による一時的な認知の歪みです。つまり、システムエラー。修正すべき不具合であって、ゲームの中核に据えるべきものではありません。そんなものをプログラムに実装することなど不可能です。第一、再現性がありません」

柑奈は、自分のノートPCを開いた。画面には、複雑な感情分析のフローチャートが表示されている。

「私は昨夜、主要な恋愛ゲーム20本をプレイし、分析しました。その結果、どの作品も感情の再現性において致命的な欠陥を抱えています。プレイヤーAが感動したシーンでも、プレイヤーBは何も感じない。これは、バグです」

「君は、恋愛のプロセスというものを理解していない」

九条も、眼鏡の位置を直しながら反論した。彼の声は冷静だが、その目には対抗心の炎が燃えている。

「出会い、会話、共通のイベント体験。正しい手順、つまりフラグを踏めば、好感度は必ず上昇し、恋愛感情は必然的に発生する。それがシナリオの美しさだ。僕が設計した恋愛ゲームは、全てそのロジックで成功している」

九条は、自分のノートPCを開き、過去の作品の売上グラフを表示した。右肩上がりの美しい曲線が、画面を彩っている。

「このデータを見てください。正しいシナリオ設計をすれば、プレイヤーの感情は完璧にコントロールできる。好感度システム、選択肢分岐、イベントCG。全てが計算通りに機能すれば、恋愛は再現可能です」

九条は、分厚い資料を取り出した。過去5年間の恋愛ゲーム市場の分析データ。成功作と失敗作の比較。プレイヤーレビューの統計。

「僕も昨夜、徹底的に調査しました。成功している恋愛ゲームには、明確な法則性があります。初対面での好感度設定、会話選択肢の配置間隔、イベントCGの挿入タイミング。全てが数値化可能で、最適化可能です」

「その手順とやらに、再現性はあるんですか?」

柑奈が、鋭く突っ込む。

「現実の恋愛でも、その『フラグ』とやらを立てれば、誰でも必ず成功するんですか? ゲームの中では成功しても、現実では通用しないんじゃないですか?」

「あります」

九条は、自信満々に答えた。

「僕の人生が、それを証明しています。計画通りに行動すれば、必ず結果が出る。恋愛も同じです」

「……あなた、恋愛経験ありましたっけ?」

柑奈の冷たい一言に、九条の表情が固まった。

「そ、それは……理論上の話です」

「理論だけで恋愛が成立するなら、誰も苦労しないわ」

「君こそ、バグだバグだと言うだけで、代替案を一つも出していないじゃないですか! 批判だけなら、誰でもできる!」

「代替案も何も、最初から実装不可能なんだから、このプロジェクト自体を中止すべきなのよ! 無理なものは無理なの!」

「中止? 会社の命運がかかっているんですよ! そんな無責任なことを言って――」

「無責任なのはあなたでしょ! 実現不可能なシナリオを書いて、それで成功すると思ってるなんて!」

完全に平行線だった。感情をバグと断じる女と、感情をシナリオで管理したい男。水と油。アンチウイルスソフトと、それ自体がウイルスのようなシナリオ。二つの思想は、決して交わることがない。

会議室のテーブルを挟んで、二人は睨み合った。

柑奈の脳内で、相手の欠陥が赤文字で表示される。

(――【ERROR】柔軟性不足。思考の硬直化を検出。システムの再起動を推奨。このままでは、プロジェクトは失敗する)

九条の脳内にも、相手の問題点が黄色く警告される。

(――【WARNING】共感性欠落。感情パラメータの異常値を検出。ルート進行不可能。このままでは、バッドエンド確定)


その時、議論を黙って聞いていた社長の氷室が、ぽんと手を叩いた。

「そうだ、いいこと思いついた!」

その、あまりにも無邪気な笑顔に、二人は嫌な予感しかしない。

柑奈の直感が、危険を告げる。(――【ALERT】致命的なバグの予感。回避不可能)

九条の思考が、悪いフラグの成立を察知する。(――【CAUTION】バッドエンド分岐点。選択肢なし)

氷室は、ニコニコしながら、爆弾を投下した。

「君たち、今日から"恋人"ね」

「「…………は?」」

二人の声が、完璧にハモった。

「だから、リアルなデータを収集するために、実際に恋愛してみてよ。3ヶ月間、偽装恋人として」

氷室は、まるで子供が新しいおもちゃを見つけたような顔で続ける。

「デートして、喧嘩して、イチャイチャして! 手を繋いで、ハグして、キスもして! その全てを、ゲームに反映させるんだ。これぞ究極の体験型開発! リアルな恋愛を体験すれば、リアルな恋愛ゲームが作れる。天才的なアイデアだと思わない?」

二人は、血の気が引くのを感じた。

「ふ、ふざけないでください!」

九条が、珍しく大きな声を出した。完璧な冷静さを保っていた彼が、初めて感情を露わにした。

「私たちに、そんなことをさせるんですか!?」

柑奈も、顔を真っ赤にして抗議する。いつもの論理的な思考が、混乱している。

「第一、私たちは互いに……その、好意など持っていません! そんな状態で偽装恋愛など、データとして不正確です!」

「そうです! 感情の伴わない恋愛など、シナリオとして成立しません!」

氷室は、笑顔のまま答えた。しかし、その瞳の奥は全く笑っていなかった。

「社長命令に、逆らうと?」

空気が、一瞬で凍りついた。

「嫌なら、このプロジェクト、別の人に任せるけど?」

氷室の声は、優しいままだった。しかし、その言葉の重さは、鉛のように二人に圧し掛かった。

「君たちのキャリア、ここで終わっちゃうかもねえ。まあ、他にも優秀なスタッフはいるし。デバッガーもプランナーも、探せばいくらでもいる」

氷室は、少しだけ真剣な表情になった。

「それに……会社が潰れたら、君たちだけじゃなく、ここにいる全員が路頭に迷うことになる。美波さんも、田中くんも、佐藤くんも、みんな。それでもいい?」

それは、悪魔の選択肢だった。

このプロジェクトを失えば、自分たちだけでなく、仲間全員の未来が失われる。給料が払えなくなる。会社が倒産する。みんなが職を失う。

柑奈の脳内で、高速で計算が回る。

(――選択肢A:拒否する → プロジェクト離脱 → 会社倒産 → 全員失業(確率90%)→ 自分の責任で仲間を不幸にする)

(――選択肢B:受け入れる → 一時的な屈辱 → プロジェクト成功の可能性(確率60%)→ 会社存続 → 全員の幸せを守れる)

(――論理的結論:選択肢Bを選ぶべき。感情的抵抗は、無視すべきバグ)

九条の脳内でも、シナリオ分岐が展開される。

(――ルート1:断る → 即座にバッドエンド → 全員不幸)

(――ルート2:従う → 困難だが攻略可能なルート → ハッピーエンド到達の可能性)

(――最適解:ルート2を選択。個人的感情は、シナリオ進行のために無視)

苦渋の、という言葉では生ぬるいほどの決断の末、二人は、重い口を開いた。

「……分かりました」

九条が、諦めたように答えた。拳を握りしめ、歯を食いしばっている。

「私も……やります」

柑奈も、目を伏せながら同意した。論理では理解できても、感情が追いつかない。

氷室は満面の笑みで、引き出しから一枚の書類を取り出した。まるで、この展開を最初から予想していたかのように。

「はい、じゃあこれにサインして。『契約恋人』の契約書ね」

二人は、まるで死刑執行書を見るような目で、その書類を見つめた。

【疑似恋愛契約書】

契約事項

一、本日より3ヶ月間、穂積柑奈と九条巧は、恋人として振る舞うこと。

二、週に最低2回、デートを実施すること。

三、デート中の行動、会話、感情の変化を詳細に記録し、開発に活用すること。

四、収集したデータは、全て『ラブ・アルゴリズム』開発に活用すること。

五、契約期間中、互いのプライベートに、業務上必要な範囲を超えて干渉しないこと。

六、本契約は、いかなる理由があっても、期間中の一方的な破棄を認めない。

柑奈は、震える手でペンを握った。

「……これ、本当に法的効力あるんですか」

「ないよー。でも君たちの良心には効くでしょ? それに、会社の未来は君たちの手にかかってる。その責任は、重いよね」

氷室の悪魔的な笑顔。

九条も、覚悟を決めてペンを走らせた。サインの文字が、彼の運命を封印していく。

サインが完了した瞬間、氷室は満足げに書類を回収した。

「よろしい! じゃあ、今日から君たちは恋人だ。頑張ってね! あ、そうそう。初デートは今週末ね。土曜日、10時に駅前集合。丸一日、デートしてきて。報告書は月曜日までに提出すること」

「今週末って……あと3日じゃないですか!」

「時間がないからね。早速始めよう! じゃ、よろしく!」

氷室は、手を振りながら会議室を出ていった。

残されたのは、沈黙と、重苦しい空気と、二人のこじれた心だけだった。


会議室を出た後、柑奈はオフィスの給湯室で、同僚デザイナーの美波に事の顛末を話していた。

美波(25歳)は、この会社で数少ない、柑奈の女友達だった。明るい性格で、恋愛経験も豊富。柑奈の相談役であり、ツッコミ役でもある。ピンク色のメッシュが入った髪、カジュアルな服装、いつも笑顔。柑奈とは正反対のタイプだ。

「あははははは! 最高! 社長、マジで天才!」

美波は、お腹を抱えて笑い転げた。コーヒーカップを持つ手が震えている。

「笑い事じゃないのよ!」

「いやいや、笑うでしょこれ。だって、お前ら、恋愛経験ゼロのこじらせコンビじゃん。それが恋人役って、漫画かよ」

「こじらせって……」

柑奈が抗議するが、美波は止まらない。

「でもさ、いいじゃん。この機会に、お前も恋愛ってもの学べば? 25歳で彼氏なしって、やばいよ? 私の友達、みんな結婚とか考え始めてるし」

「別に、必要ないわ。恋愛など、非効率的で非生産的な活動だもの」

「必要あるよ! 人生、仕事だけじゃないんだから。ときめきとか、幸せとか、そういうのも大事なんだよ」

美波は、柑奈の肩を叩いた。

「それに、九条さん、結構いい人じゃん。真面目だし、仕事できるし、顔もいいし」

「顔は……関係ないでしょ」

「あ、認めた。顔はいいって思ってるんだ」

「そういう意味じゃない!」

柑奈の顔が赤くなる。美波は、楽しそうに笑った。

「ま、頑張んなよ。応援してるから」

そう言いかけて、美波は少しだけ表情を曇らせた。

「……私にもね、気になる人がいてさ」

「え?」

柑奈が驚いて顔を上げる。美波が、そんな表情を見せることは珍しい。

「でも、全然振り向いてくれないんだよね。あの人、仕事一筋で。私のこと、同僚としか見てないっぽい」

美波は、遠くを見るような目をした。給湯室の窓から見える、オフィスの風景。そこには、黙々と仕事をする男性スタッフの姿があった。

「2年前からずっと好きなんだけど、一度も伝えられてない。告白して、今の関係が壊れるのが怖くて」

柑奈は、初めて美波の恋愛の悩みを知った。いつも明るく、恋愛を楽しんでいるように見えた彼女にも、そんな切ない想いがあったなんて。

「……美波」

「でもさ、お前が頑張ってるの見たら、私も勇気出るかもしれない。だから、お前が幸せになってくれたら、私も頑張れる気がするんだ」

美波は、いつもの明るい笑顔に戻って、柑奈の背中を押した。

「だから、偽物でもいいから、恋愛ってものを楽しんでみなよ。意外と、悪くないかもよ?」

柑奈は、美波の言葉を胸に刻んだ。


オフィスの廊下で、柑奈と九条は気まずく向き合った。

二人とも、視線を合わせられない。沈黙が、重く圧し掛かる。

先に口を開いたのは、九条だった。

「……勘違いしないでください。これは仕事です。データ収集が目的です」

彼の声は、やや震えていた。いつもの冷静さが、どこか不安定だ。

「同感よ。あなたに個人的興味は一切ないわ。単なる業務提携よ」

柑奈も、冷たく返す。しかし、その頬は微かに紅潮していた。

「では、業務として、最低限の義務を果たしましょう。週2回のデート、データの記録、報告書の提出。すべて、契約通りに」

「そうね。効率的に、必要なデータだけ集めればいい。無駄な感情は排除する」

二人は、互いに視線を合わせないまま、そう確認し合った。

しかし、ふと目が合った瞬間――

なぜか、心臓の鼓動が、ほんの少しだけ速くなった。

柑奈の脳内に、赤い警告灯が点滅する。

(――【ERROR】心拍数異常上昇。血圧上昇。体温微増。原因不明。デバッグが必要。このバグは……何?)

九条の思考に、一瞬のフリーズが発生する。

(――【WARNING】予期せぬ生体反応。発汗、心拍数増加を検出。シナリオにない想定外のイベント。対処法不明。このルートは……存在しないはず)

二人は、慌てて視線を逸らした。

別れ際、九条が振り返った。

「あの……穂積さん」

「何?」

「これは……本当に、仕事ですよね?」

柑奈は、少しだけ間を置いて、答えた。

「……当然でしょ。他に何があるというの」

「……そうですよね。失礼しました」

九条は、安堵したような、少し寂しいような、複雑な表情で頷いた。


その夜、柑奈は自宅のアパートで、一人でベッドに座っていた。

部屋は簡素だった。机、椅子、ベッド、本棚。必要最小限のものしかない。感情的な装飾は一切ない。効率を追求した空間。

「デート……か」

初めての経験だった。過去に告白されたことはあるが、全て断ってきた。論理的根拠がない、と。

でも、今回は断れない。契約だ。仕事だ。会社のためだ。

「……九条さんと、デート」

その言葉を口にした瞬間、なぜか胸が、ざわざわした。

「これは……バグだ」

柑奈は、自分の胸に手を当てた。心臓が、普段より少しだけ速く鳴っている。

「早急に、修正しないと……でも」

でも、不思議と、修正したくない気持ちもあった。このバグは、どこか心地よい。そんな矛盾した感覚。

窓の外に目をやる。夜空に、星が瞬いている。

(――父さんは言った。お前はバグだらけだ、と。でも、このバグは……)

一方、九条も、自宅のマンションで、デスクに向かっていた。

部屋は完璧に整理されていた。本は高さ順、書類は日付順、ペンは種類別。全てが、秩序を保っている。

「デート……のシナリオか」

彼は、ノートを開き、完璧なデートプランを書き始めた。

「10時駅前集合。カフェで30分会話。話題は天気、仕事、趣味の順。その後、水族館。ランチはイタリアン。パスタを注文すれば無難。午後は映画。ジャンルは彼女の好みに合わせる。夕方、公園で夕日を見る。18時解散」

完璧だ。このシナリオ通りに進めれば、好感度は確実に上がる。データも収集できる。

「……いや、待て」

九条は、ペンを止めた。

「相手は、穂積さんだ。彼女は、予測不能な行動をする。マニュアル通りには動かない」

彼の脳内に、柑奈の顔が浮かぶ。冷たい目。論理的な言葉。しかし、時折見せる、真剣な表情。バグを見つけた時の、嬉しそうな顔。

「……」

なぜか、胸が少しだけ、温かくなった気がした。

「これは……想定外のイベントだ。シナリオにない……でも」

九条は、ノートを閉じた。

窓の外、同じ星空が広がっていた。

二人の運命の歯車は、ゆっくりと、しかし確実に回り始めていた。

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