圏外の帰路
nii2
第1話【午後7時の迷い子】
午後7時。
鳴り響く発車ベルが、弛緩しきった思考を強制的に現実へと引き戻す。佐藤は満員電車の圧迫から解放され、いつものように最寄り駅のホームに降り立った。消毒液と埃の混じった生温い空気が肺を満たす。人の波に押されるように改札を抜け、足が一歩、アスファルトを踏み出した、その瞬間だった。
空気が、明確に変わった。
まるで薄い膜一枚を、無意識のうちに突き破ったような、奇妙な肌触り。鼻腔をくすぐる匂いが違う。いつもなら漂っているはずの、焼き鳥のタレが焦げる香ばしい匂いがしない。代わりに、古いインクと錆びた金属が混じり合ったような、乾いた匂いがした。それは記憶の底に眠る、忘れかけていた小学校の理科室の匂いに似ていた。
「疲れているのか……」
そう呟いてみたが、目の前の光景が、その自己完結を無慈悲に否定した。
毎日、仕事帰りに決まって立ち寄る駅前のコンビニ。その煌々たるネオンも、自動ドアの電子音も、雑誌の並ぶ明るい窓も、跡形もなく消え失せていた。代わりにそこには、煤けたレンガ造りの古びた時計屋が、まるで何十年も前からそこに在ったかのように、静かに佇んでいた。ショーウィンドウの奥では、大小様々な振り子時計や懐中時計が、すべて針を止めて沈黙している。時を刻む音一つしない、死んだような空間。
足がアスファルトに縫い付けられたように動かない。見上げた街灯は、記憶の中の暖かなオレンジ色ではなく、死人の肌を思わせる冷たい青白色の光を放ち、街全体を陰鬱に照らしている。建物の配置が、高さが、壁の色が、記憶と微妙にズレている。それは精巧に作られた偽物であるかのように、佐藤の網膜の上を滑っていく。身体の奥底から、得体の知れない恐怖が這い上がってきた。
心臓が、鼓膜を突き破るかのような嫌な音を立てて脈打ち始めた。震える手でスマートフォンを取り出すが、画面の左上には無情な「圏外」の二文字。GPSは地球のどこも指し示さず、ただ灰色の虚空が広がっているだけだった。現実との接続が、あらゆる方向から断ち切られたような絶望感。
道行く人々は、誰一人として立ち尽くす佐藤に目を向けない。スーツ姿の男が、老婆が、学生の集団が、彼のすぐそばを通り過ぎていく。ぶつかりそうになった瞬間、彼らの身体はまるで陽炎のように僅かに揺らぎ、佐藤の存在などないかのように、彼の体をすり抜けていった。透明人間。自分がこの世界のノイズになったかのような、絶対的な孤独感。声を張り上げようとしても、喉がひきつれて音にならない。声帯が機能しないのではないか、とさえ思った。
その時、ふと、視線を感じた。
雑踏の中で、セーラー服を着た一人の少女だけが、真っ直ぐに佐藤を見ていた。色素の薄い瞳は、人形のように何の感情も映していない。ただ、見つめている。
少女が音もなく近づいてくる。肌が粟立つような、不気味な静けさ。
「帰り道を探してるの?」
鈴を転がすような、しかし抑揚のない、平坦な声。佐藤が安堵と混乱のまま頷こうとした瞬間、少女は続けた。
「こっちの世界の『佐藤さん』の家は、もうないよ」
その言葉は、冷たい針となって鼓膜を突き刺した。少女は「あなたは交差点に迷い込んだだけ」と囁き、次の瞬間には人波に溶けて消えていた。まるで最初からそこにいなかったかのように。
交差点。その言葉が、耳の奥で反響する。唯一の希望は、ポケットの中で指先に触れた、アパートの鍵の感触だけだった。冷たい金属の塊。だが、強く握りしめていると、次第に自分の体温が移り、微かな温もりを帯びてくる。これだけが、自分が「佐藤」であることの、そして「帰るべき場所」があることの、唯一の証明だった。この鍵が合うドアを探し出せば、きっと、すべてが元に戻る。戻さなければならない。
震える足で歩き始めた。記憶の中の地図を頼りに、見慣れたはずの道を辿る。だが、世界は彼の認識を嘲笑うかのように、その姿を狂ったように変え始めた。
一つの角を曲がると、アスファルトの道は音もなく苔むした石畳へと変貌し、両脇のビル群は天を突くほどに巨大な木々が立ち並ぶ鬱蒼とした森になっていた。湿った土と腐葉土の匂いが肺を満たし、遠くで獣の鳴き声が聞こえる。
狼狽して引き返し、別の路地へ逃げ込むと、今度は目が眩むほどのネオンの洪水。空には巨大な鯉のホログラムが優雅に泳ぎ、飛行車両が音もなく頭上をかすめていく、サイバーパンク都市が広がっていた。行き交う人々は、身体の一部が機械化され、冷たい光を放つ瞳で佐藤を一瞥する。
出会う人々が、彼に矛盾した言葉を投げかける。
「お前のような綻びは、世界にとって厄災だ」と、深い皺を刻んだ老人が、唾を吐き捨てるように言った。
「可哀想に。あなたの本当の帰る場所は、もうどこにもないのよ」と、虚ろな目をした娼婦が、憐れむように囁いた。
「あの人はどこにもいない人だ!」と、奇妙な仮面をつけた子供が無邪気に指をさし、走り去っていく。
言葉の礫を浴びるうちに、佐藤自身の記憶が曖昧になっていく。
自分は本当に『佐藤』なのか?三十代の、平凡な会社員?帰りたいと願う『家』は、どんな部屋だった?壁紙の色は?窓から見える景色は?妻の顔は?——妻?自分には妻などいたか?自己の輪郭が、濃霧の中で溶けていくような恐怖。そのたびに、彼はポケットの鍵を強く、強く握りしめた。指の間に食い込む金属の感触と、掌に宿る微かな温もりだけが、崩壊しかけた自我をかろうじて繋ぎ止めていた。
どれほどの時間、彷徨ったのだろう。疲労は限界を超え、思考は白く掠れていた。もうどうでもいい、膝が折れてこのまま地面に吸い込まれてしまえば楽になれるのに、とまで思い詰めたその時、不意に、目の前にそれが現れた。
見覚えのある、二階建ての安アパート。外壁の褪せたクリーム色、錆の浮いた鉄製の階段、二階の角部屋の、少しだけ塗装が剥げたドア。記憶と寸分違わなかった。あまりにも完璧に、そこにあった。
「……あった」
声にならない、乾いた息が喉から漏れた。安堵と歓喜で視界が滲む。震える手でポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。
カチリ、と乾いた金属音が響く。
これだ。この音だ。俺は、間違っていなかった。
ゆっくりとドアを開ける。隙間から、澱んだ、しかし確かに『自分の家』の匂いが流れ出した。
「ただいま……」
自分でも驚くほどか細い声で呟くと、薄暗い部屋の奥から、返事があった。
「……」
そこに、男が立っていた。
窓から差し込む青白い街灯が、その横顔を照らし出す。息が止まった。自分と全く同じ顔。しかし、その瞳には深い疲労と、すべてを諦めきった絶望の色が、乾いた沼のように淀んでいた。
男は驚くでもなく、ただ静かに、ひどく悲しそうに微笑んだ。
そして、永遠にも思える沈黙のあと、乾いた唇を開いた。
「おかえり。俺が『こっちの世界』から弾き出されて、もう3年になる」
その言葉は、最後の希望を打ち砕く、冷たく、確かな音だった。手の中で温もりを保っていたはずの鍵が、急速に熱を失い、ただの冷たい鉄の塊へと戻っていく。ここもまた、自分の「家」ではなかった。そして目の前の男は、弾き出された過去の自分であり、やがてこうなる未来の自分でもあった。
この迷宮に、出口など存在しないのだ。
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