第9話 委員長の「私物」と、深まるクラスの誤解

 あの「理不尽に吹き飛ぶおばさん」の翌日、理科準備室での「勝利のキス」指導を受けてから、僕はどうにも落ち着かない。頬に触れた委員長の唇の感触が、学校での彼女の冷徹な横顔を見るたびにフラッシュバックする。


 朝のホームルーム前、花市委員長が僕の席にやってきた。いつものように、完璧な姿勢で、一切の感情を顔に出さない。


「黒羽くん」


「は、はい」


「昨夜の配信結果を分析したわ。あなたの『巨像アトラス』への知識不足が、敗北の最大の原因。よって、委員長として特別学習指導を実施します」


 凜は、そう言いながら、僕の机の上に真新しい二冊の参考書を置いた。どちらも難関大学受験対策で有名な、分厚い参考書だ。


「この二冊は、委員長が独自に入手したものよ。今日の昼休みまでに、第一章を完璧に理解しなさい。これは、あなたの成績向上に不可欠なミッションです」


 僕は、そのあまりの厚さに絶句した。一日で第一章など、到底無理だ。


「あの、花市委員長……こんなに分厚いものを、今日中にですか?」


「私に不可能という言葉は通用しないわ。それに、この参考書は私の私物。大切に扱うこと。もし一ページでも汚したら、……特別な罰則を適用するわ」


 その最後の言葉だけは、委員長の理性ではなく、ユキとしての強い独占欲が滲み出ていたように感じた。彼女は僕の顔を一瞥もせず、まるで誰もいないかのように、完璧な足音で教壇へと戻っていった。


 僕が分厚い参考書を前に呆然としていると、陽キャグループのリーダー格、斉藤がニヤニヤしながら僕の席にやってきた。


「よお、黒羽。すげーな、お前。あれ、花市さんの私物だろ?」


「え?ああ、そうみたいだけど……」


「羨ましいぜ、裏のルート持っててよ」


「裏のルート?」


「とぼけんなよ。あの花市委員長が、自分の私物の超絶レア参考書を、お前にだけ貸すんだぜ?しかも『特別な罰則』付きで。あんなもん、普通は誰にも見せねえよ」


 斉藤は、僕の周りに集まってきたクラスメイトたちに聞こえるように、声を上げた。


「聞いたか? 黒羽は、裏で花市委員長に『特別贈賄』してるんだよ。成績向上という名目で、委員長の個人的な寵愛を受けてる。しかも、『一ページでも汚したら罰則』って、完全に委員長の私物コレクションじゃねーか!」


 クラスメイトたちの僕を見る視線が、「孤立した地味な生徒」から、「委員長に可愛がられている、秘密の寵愛生徒」へと、完全に変わってしまった。僕は何も言い返せず、ただ参考書を抱きしめるしかなかった。


(違う!これはユキの愛情であって、委員長の贈賄じゃない!)


 僕の叫びは、もちろん誰にも届かない。


 昼休み。僕は、クラスの視線から逃れるため、図書室の隅の席に避難した。


 分厚い参考書を開く。第一章はやはり難解だ。集中力を高めようとページをめくると、参考書のページの間から、何かがヒラリと落ちた。


 それは、小さな付箋だった。

 付箋には、委員長の花市凜の、几帳面で美しい筆跡で、こう書かれていた。


『この参考書には、私が個人的に書き込んだ「難解語句の覚え方」の付箋が数枚隠されているわ。これを見つけられたら、昨夜の「理不尽に吹き飛ぶおばさん」の分、あなたの集中力は完璧だったと評価する。—委員長より』


(な、なんだこれ!?)


 僕の心臓が激しく鳴り響く。これは、委員長という公的な立場を使いながら、ユキとしての愛情を秘密裏に僕に伝達する、ユキの最高に甘い暗号だ。


 僕は周囲に誰もいないことを確認し、慌てて残りのページをめくり始めた。数ページ進んだところで、二枚目の付箋を見つける。


『ここが最重要ポイントよ。私の推しが、この問題でつまづくはずがないわ。夜の配信で、その成果を私に見せて。—ユキ』


 その「ユキ」の筆跡は、先ほどの「委員長より」の筆跡と、全く同じだった。


(委員長の仮面を被ったまま、僕に「私の推し」と呼びかけてくる……!そして、彼女の私物の参考書の中に、こんな個人的なメッセージを忍ばせているなんて!)


 僕は顔が熱くなるのを感じた。クラスメイトたちは、僕が「委員長への贈賄ルート」で特別な参考書を借りていると思っているだろう。しかし、その実態は、委員長からの、狂気的なまでの愛情と独占欲が込められた「秘密のラブレター」だったのだ。


 僕は、その二冊の分厚い参考書を、誰にも触れさせまいと、さらに強く抱きしめた。この参考書は、僕と花市委員長との、誰にも知られてはいけない「秘密の私物」になったのだ。


 放課後。僕が理科準備室に冷却ファンを返しに行く代わりに、凜が僕を呼び止めに来た。


「黒羽くん。今日の特別学習指導の成果、どうだったかしら」


 彼女は、生徒が去り閑散とした廊下で、僕の目をじっと見つめた。その瞳の奥には、すべてを見透かすような冷徹さがあった。


「は、はい。なんとか、第一章は……」


「そう。わかっていたわ」


 凜は、満足そうに微笑んだ。その笑みは、委員長としてではなく、自分の計画が完璧に成功したユキの笑顔だった。


「その参考書は、明日の放課後、また私に見せなさい。ユキからの次の指導が必要よ。もちろん、私の私物だから、誰にも貸さないで」


 彼女はそう言い残し、冷たい廊下を、完璧な姿勢で去っていった。僕の心臓は、彼女の完璧な独占欲に支配され、明日への期待と緊張で高鳴り続けていた。

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