第5話 夜の記憶と、昼の鉄壁。委員長の冷徹な「事後処理」

 ピピピッ、ピピピッ――。


 目覚ましが鳴る前に、僕は目を覚ました。昨夜の花市邸での出来事――裸エプロン姿の凜が、真剣な顔で「勝利のスムージー」を作っていた光景が、脳裏に焼き付いて離れない。体は疲れているはずなのに、心臓だけが妙にうるさい。


「お兄ちゃん、もう起きたの? 早いね」


 ノックもせずに、僕の部屋の扉がすっと開いた。そこに立っていたのは、僕の妹、黒羽 咲良(くろはね さくら)だ。


 咲良は、僕とは似ても似つかない、天性の美少女だ。サラサラの茶色いショートヘアが朝の光に透けて輝き、眠たげな大きな瞳は、まるで宝石のよう。フリルがついた淡いピンクのパジャマを着て、まだ夢の中にいるかのようなふわふわとした雰囲気を纏っている。


「咲良も早いな。まだ七時前だぞ」


「だって、お兄ちゃんが早く起きるから、ご飯の匂いがするんだもん」


 咲良は、まだ眠気の残る声でそう言うと、テチテチと小刻みに歩み寄り、何の躊躇もなく、僕のベッドの縁に座った。


「お兄ちゃん、今日の配信、見たよ」


「っ! 咲良、声を抑えろ。配信なんてない」


「えー?あるじゃん。お兄ちゃんの『クロ』チャンネル」


 咲良は、くすくすっと楽しそうに笑う。彼女は、僕が人気実況者「クロ」であることを知っている数少ない家族であり、僕の最大の理解者だ。(ただし、課金はしない。)


「昨日の『詰んだわ』、すごく切羽詰まってて良かった。でも、あのボス、いつものお兄ちゃんなら楽勝じゃん。何か集中できないことあったの?」


 咲良は小首をかしげ、その仕草の可愛らしさに、僕の心の緊張が少し溶ける。妹は、僕が学校で地味なのも、夜に配信をしているのも、全て「お兄ちゃんの趣味」として受け入れている。


「いや、ちょっと、複雑なことがあってな……。それより、咲良、朝食は?」


「まだだよ。ねぇ、お兄ちゃん」


 咲良は、僕の顔を覗き込むように、頬をムギュッと膨らませた。


「お兄ちゃん、なんか匂いが違う。いつもは本の匂いなのに、今日はすっごくいい匂い。なんだろ? お花と甘いお菓子と、ちょっとだけ、緊張したお兄ちゃんの匂い」


「っ、な、なんでもない! 早く着替えて朝飯にしろ!」


 僕は思わず声を荒げ、咲良をベッドから追い出した。昨夜、花市委員長の石鹸と焼きたてクッキーの匂いが、僕の服に移ってしまっているのだろうか。妹の鋭い嗅覚に冷や汗をかく。


「え〜、ケチ。でも、お兄ちゃんがいつもよりドキドキしてる匂い、嫌いじゃないよ」


 咲良は、そう言って、振り返りざまに、猫のように可愛いウインクを一つ残すと、機嫌よく部屋を出て行った。


(妹にもバレるほどの匂いと、動揺……花市委員長(ユキ)、恐るべし)


 僕は頭を抱えながら、登校の準備を始めた。外では完璧な委員長の仮面を被っている凜だが、彼女の愛情の痕跡は、確実に僕の日常に、甘いトラブルを持ち込み始めていたのだった。


 一夜明け、僕は生きて学校に来ているという事実だけで、奇跡だと思った。昨夜の花市邸での出来事――裸エプロン姿の凜が、真剣な顔で「勝利のスムージー」を作っていた光景が、脳裏に焼き付いて離れない。


 僕は普段よりもさらに猫背になり、自分の席に座り込んだ。昨夜の記憶が鮮明すぎて、どうにも顔が熱い。


「おはよう、竜牙くん」


 凜は、朝の委員長の仕事を終えると、僕の席に静かにやってきた。昨夜の甘く、刺激的なユキは、そこには存在しない。いるのは、いつもの冷徹で完璧な花市委員長だ。


「おは、おはようございます、花市委員長」


 僕が緊張で声が裏返ると、凜は僕の顔を一切見ず、視線は机の上に置かれた文房具に向けられていた。


「昨夜の『極秘会議』、お疲れ様。データ分析は深夜まで及びましたが、あなたの集中力は非常に高かった。感謝します」


「あ、いえ……委員長のサポートのおかげで……」


 僕が「サポート」という言葉を選んで言うと、彼女の口元がわずかに、本当に一瞬だけ緩んだように見えたが、すぐに消えた。


「さて、今日の委員長の業務連絡よ」


 凜は、僕の机の上に、新しい『昼食摂取ガイドライン』と書かれたA4用紙を置いた。


「まず、昨夜の『勝利のスムージー』の効果検証のため、あなたは今日一日、糖質の多い食べ物を禁止とする。給食のパンは私が責任を持って回収するわ」


 そして、彼女は教室全体に向け、厳粛な声で宣言した。


「皆。昨日の給食で黒羽くんの魚フライの衣剥がしを見て、一部で誤解が生じているようね」


 教室のざわめきが一気に大きくなる。陽キャグループのリーダー格が、ニヤニヤしながらこちらを見ていた。


「委員長として、誤解を解きます。あの行動は、黒羽くんの深刻な健康状態(配信過多)と、栄養失調の危機に対する、人道的な特別措置であり、個人的な感情は一切ない。これ以上、無責任な噂を流す生徒には、厳しく対応するわ」


 凜は、冷たい氷の視線を教室中に向け、その完璧な理性で、昨夜のユキの熱狂的な暴走の痕跡を、完全に消し去ろうとしていた。その姿は、あまりにも見事で、僕は何も言えなかった。


(これが、花市委員長の『事後処理』か……。昨日の甘い記憶を、鉄壁の理性で封鎖している)


 しかし、その完璧な理性にも、ユキの愛情の痕跡は残されていた。


 午前中、僕は授業中に先生に当てられ、黒板に答えを書きに行った。席に戻ると、自分の机の引き出しから、甘い、焼き菓子の匂いが微かに漂ってきた。


 引き出しをそっと開けると、そこには、いつの間にか、凜が昨日持参していたアルミケースが入っていた。中には、ハート型に焼かれたクッキーが一つだけ。そして、そのクッキーの横に、小さなメモが添えられていた。


『授業中、脳のエネルギーが枯渇しかけたら、これをこっそり食べなさい。私が作ったものだから、私だけが、あなたのコンディションを把握できる。誰にもバレないように。—ユキ』


 文字の端々には、昨夜の裸エプロンの記憶と同じ、狂気的なまでの独占欲が滲み出ている。


 そして、体育の授業後。教室に戻った僕を、凜が待ち構えていた。


「竜牙くん。今日の体育の授業で、あなたの汗腺の過剰な活動が確認されたわ」


 凜は、一切の表情を変えずに言う。


「そこで、委員会で定めた『黒羽竜牙くん専用冷却対策』を実施します」


 彼女は、僕の席の椅子に、いつの間にか設置されていた真新しい、冷却ジェルパッドを指さした。そして、自分のカバンから、小型の充電式ハンディファンを取り出した。


「午後の授業中は、このファンをあなたの机の下に設置する。委員長が、あなただけに極上の冷却環境を整える。もちろん、あなたの集中力維持のためよ。勘違いしないで」


 凜は、僕の目を一瞬だけ見つめた。その瞳の奥には、昨日僕が自宅で見た、パジャマ姿の少女の可愛らしさが、確かに潜んでいた。


「ただし、この冷却ファンは私の私物よ。だから、放課後、この理科準備室に返しに来てちょうだい」


 最後の言葉は、委員長の業務連絡ではなく、僕を再び自分のプライベート空間に誘う、ユキの甘い誘惑だった。


 僕は、委員長の権限によって整えられた「特別な席」に座り、彼女の私物から送られてくる冷風を受けながら、昨夜の裸エプロンの記憶と、目の前の完璧な委員長のギャップに、頭を抱えるしかなかった。


(夜は全裸エプロンで「私だけのもの」と迫り、昼は完璧な委員長の仮面で「健康管理」を名目に僕を独占する……)


 僕の心臓は、この秘密の契約によって、甘さとドキドキで、もう限界に近い状態だった。

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