異世界に迷い込んだ中年のおじさんが異世界でのんびりと暮らすようです

猫撫子

第1話 おじさん、異世界に迷い込む

木村和夫、三十八歳。

 独身、彼女いない歴=年齢、そして童貞。

 都内の小さな印刷会社で事務職をしており、朝九時に出勤し、夜七時に帰る。

 特に目立つ趣味もなく、休日は録画したドラマを観たり、安酒をちびちびやったり。

 そんな、ごくありふれた「平凡」そのものの人生を歩んでいた。


その日も、いつも通りの帰り道だった。

 電車の中ではスマホでニュースを眺め、駅を降りて、コンビニで缶チューハイを一本買う。

 「今日も疲れたなぁ……」

 そう呟きながら、アパートまでの細い路地を歩いていた――そのときだった。


視界が、一瞬で白く染まった。


 目を閉じたわけでもないのに、周囲の景色がまるで写真を剥がしたように消えた。

 反射的に目を擦ると、代わりにそこに広がっていたのは、草原だった。


 どこまでも続く青空。

 風に揺れる緑の丘。

 そして遠くには、信じられないほど巨大な木が空を貫いていた。


 「……え? 夢、か?」


 思わず呟いた声が、妙にクリアに響いた。

 音が澄んでいる。空気が違う。

 ――これは、夢ではない。そう、直感した。

 

「な、なんだここ……?」


 足元には見慣れない草。リュックも財布もある。だがスマホは圏外。

 とりあえず、歩いてみることにした。

 それが、和夫の“異世界生活”の始まりだった。


 ***


 日が傾き始めた頃、小川のそばに煙を上げる小さな家を見つけた。

 「すみませーん!」と声をかけると、中から出てきたのは白髪混じりの男性。

 

「おお、旅人さんかね? 見ない顔だが……」

 「え、あ、はい……その……道に迷いまして……」

 和夫は曖昧に笑った。まさか「異世界から来ました」とは言えない。


 老人は親切だった。中へ通され、温かいスープを振る舞ってくれた。

 「ここはアリシア王国の北端、ロスト平原じゃ。……あんた、ずいぶん変わった服を着とるな」

 「ええ、まあ……」


 話を聞くうちに、やはりここは「地球」ではないと確信する。

 空には二つの月があり、村では“魔法”という言葉が当たり前に使われていた。


 「旅人さん、名前は?」

 「木村和夫と申します」

 「ふむ……少し覚えにくいの。では“カズオ”と呼ばせてもらおう」


 老人――名をハーベンというらしい――の笑顔は、どこか懐かしかった。


 その夜、和夫はハーベンの家に泊めてもらった。

 粗末な寝台に横たわると、突然、頭の中に声が響いた。


 > 『――汝に“理緩(ことわりゆる)め”の権能を授ける』


 「……え?」


 周囲を見回すが、誰もいない。


 幻聴かと思った瞬間、再び声が続いた。


 > 『世界の理を、少しだけ緩やかにする。それが汝の力なり』


 理解できない。だが、胸の奥が温かくなった。眠気が一気に押し寄せ、和夫はそのまま眠りに落ちた。


 ***


 翌朝。

 目を覚ますと、ハーベンが庭で困っていた。

 「くそっ、昨日からポンプが動かん……」


 井戸の横には錆びた鉄のポンプ。

 ハーベンが何度も試すが、うんともすんとも言わない。


 和夫は何となく手を伸ばした。

 「……動け」


 ぽこん。

小さく音を立てて、水が噴き出した。

 

 「おおおっ!? 直った!」

 「え、あ、ほんとだ……」


 和夫自身も驚いていた。

 触れただけなのに、錆が消え、金属の輝きが戻っていた。


 > 『理が緩んだ』


 また、あの声だ。


 どうやらこれが――自分に与えられた“力”らしい。

 世界の「法則」そのものを、少しだけ緩める。

 錆びて動かないものを“まだ動く”状態に戻す。

 疲れた人を“まだ動ける”ようにする。

 死にかけの植物を“まだ生きている”状態に戻す――。


 それは、戦闘とは無縁の力。

 だが、限りなくチートだった。 


 ***


 ハーベンは感謝し、和夫に言った。

 「よければ、この村でしばらく暮らしていかんか? 旅の疲れもあるじゃろう」


 「……いいんですか?」

 「構わんとも。村の皆にも紹介してやろう」


 こうして、和夫は異世界での生活を始めることになった。


 最初はぎこちなかったが、温和な性格と誠実さがすぐに受け入れられた。

 村の水路を直し、家畜の病気を癒し、枯れた畑に再び緑を戻した。

 彼の力はいつも“少しだけ”働く。派手ではないが、確実な奇跡だった。


 「カズオさんが来てから、村の空気が変わりましたね」

 そう言って笑うのは、村娘のリーナだった。

 まだ十代半ばの快活な少女で、ハーベンの孫娘だ。


 「いやぁ、僕は何もしてないよ。ただ少し手を貸しただけで……」

 「そんなことないです! だって、この花もカズオさんが触ったら咲いたんですよ!」


 リーナは手に持った小さな白い花を見せる。

 ――和夫が昨日、枯れかけていた鉢植えを撫でた花だった。


 その笑顔を見て、和夫は心の底から思った。

 「ああ、こういうのも……悪くないな」


 会社での孤独な日々。

 誰にも必要とされない日常。

 その全てが、遠い世界の出来事のように感じられた。


 穏やかに、静かに、異世界での生活が始まる。それが、この世界を変える小さな波紋になるとは

――

 このときの和夫は、まだ知らなかった。




🪄 次章予告(第2章:村に広がる奇跡)

和夫の力は、やがて村全体を潤す奇跡として語られるようになる。

しかし、平穏の裏で王国の“異変”が静かに進行していた。

彼の「のんびりとした暮らし」は、思わぬ方向へと転がり始める――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る