第18話「失敗の仕方」
朝の研究棟は、いつもより静かだった。
静けさは音がないことじゃない。機械の規則正しい脈や、遠くの換気扇の低い回転や、紙をめくる指の乾いた擦れが、ひとつの拍に乗っているときの、整った静けさだ。優は見学室のガラスに額を近づけ、並んだ二基のカプセルを見つめた。赤い内壁は昨夜と同じ色で、天面のライトは、呼吸をまねるようにゆっくりと明滅している。
美凪は左のカプセル、澪は右。二つの間には透明の仕切りが立ち、仕切りの中央には、消毒済みの白い布で覆われた小さな開口がある。片側の手を通せるだけの、慎ましい通路。もしものとき、握るための穴だと、加瀬は言った。
「最初は十秒。肩だけ重ねる。二回目は十五。三回目、二十。やり過ぎない」
加瀬は端末を胸の高さに持ち、簡単な言葉だけを選んで並べた。数式はひとつも出さない。画面の右上に据えられた白い数字——成功率——は、昨夜の四十八から、今朝は五十一に上がっている。二重核の反復練習で、基礎の指標がわずかに底上げされたのだと、技師が小声で補足した。
「大きい数字じゃない。でも、見間違いではない」
「見間違い、嫌いじゃないけどね」
美凪が冗談みたいに言う。顔の力は抜けている。昨日の屋上で見た月の光が、まだ目の裏側に残っているような、柔らかい目だ。澪は目を細くし、頷きだけした。頷くのは上手になってきたが、笑うのはまだ不器用だった。
「今日は、ひとつだけ、いつもと違うことをする」
加瀬の声で、部屋の空気が少し立つ。優も顔を上げた。
「リンクの前に、『終わり』の練習を挟む。切り方の練習。うまく切れれば、深く踏み込める。深く踏み込めれば、戻れる範囲が広がる」
「終わりの練習?」
優が思わず聞き返す。終わりと練習は、普通なら並ばない。並べる勇気のある人は、あまりいない。
「うん。終わりの仕方を知らないと、終わりは乱暴になる。乱暴な終わりは、周りも巻き込む。だから、終わり方を先に決めて、身体に覚えさせる」
「……了解です」
澪が小さく言った。声に薄い影が差す。影の形は、昨夜よりも具体的だ。優はガラス越しに美凪の顔を見た。彼女は目線だけで「大丈夫」と言い、胸の芯子の上からそっと手を当てた。
接続。導線が二人の背に沿って貼り付き、胸の芯子の端子に短いケーブルが噛み合う。小さなクリック音が、同時に二回。音は軽い。軽いのに、ため息みたいな重さで耳に残る。
「吸って、吐いて」
スピーカーがやわらかい声でリードし、二人の胸がテンポを合わせる。優もガラスのこちらで、唇だけの呼吸を重ねた。吸って、吐いて。三度目で、体の力が少し抜け、四度目で足裏の感覚が整う。五度目、世界地図の等圧線が一箇所だけ素直にほどけるのを、モニターが映した。
「リンク、一回目」
技師の短い号令。画面上で、二人の出力波形が滑るように寄り、山の手前の肩だけが浅く重なる。部屋の温度が一度、落ち着く。静電センサーの黄色いランプは点かない。優は短く息を吐き、加瀬が親指を一瞬だけ立てるのを見た。
十秒で切断。問題なし。二回目、十五秒。肩の合わせはさらに滑らか。澪の喉の筋が少し緊張するが、すぐにほどける。モニター右上の数字が数秒だけ五十二を示し、また五十一に戻った。上がって、戻って、構わない。上がる瞬間を見逃さないことが大事だ。
「三回目、二十秒。やり過ぎない」
加瀬の声。優は自然と背筋を伸ばし、ガラスに手のひらをそっと付ける。美凪が目を閉じ、澪が目を開けたまま呼吸を整えた。リンク開始。
その瞬間だった。
右側の波形が、ふっと前に出た。美凪の滑らかな曲線を追い越すように、澪の線が独走に入る。肩と肩を合わせるべき場所で、右の山ががくんと高くなり、画面の上で形が崩れた。
「右、出力上昇。片寄り」
技師の声が低く、早くなる。静電ランプが一度点き、すぐ消える。消えたあと、また点く。点滅が二回、三回。加瀬の指がダイヤルを回し、機械側の抑制をかける。抑制の手前で、澪の胸が苦しそうに上下した。
「澪、落として。呼吸に寄せて」
加瀬の声は、静かだ。静かなのに、急いでいる。澪は頷く。頷くけれど、目が遠い。視線はカプセルの天面を抜け、その先のどこにも焦点を置けていない。喉の筋肉が強張り、唇が固く閉じられる。閉じられた唇から、押し殺した声が漏れた。
「……やだ」
小さく、幼い響きだった。続けざま、澪の右手が、カプセルの縁を探すように宙を彷徨う。肌に貼った導線が引かれ、ビニールの薄い音が鳴る。波形がさらに持ち上がる。数字が五十に下がり、今度は四十九の影まで触れた。
「切る?」
技師が伺い、加瀬が首を横に振る。「まだ」と短く答える。まだ戻れる、と彼女は判断したのだ。
「澪、声をこちらに。ここ」
加瀬の指が、仕切りの中央の小さな開口を示す。澪は頷くが、頷きが身体に届かない。届かない合図は、身体を余計に疲れさせる。彼女の目の焦点がさらに奥へ引かれ、カプセルの天井の赤が血の色みたいに濃くなる。
「……終わりたい」
澪が言った。明確に。はっきりと。声の高さも速度も、誰かに読み上げるみたいに整っているのに、内容は足元をさらっていく。優は喉の奥で噛みしめ、ガラスに貼り付けた手のひらに力を込めた。加瀬が「澪」と呼ぶ。呼び方は短く、強い。
「その言葉、コアが拾う。言わない。言うなら、最後に」
「終わりたい。終わりたい。終わらせたい」
澪の声が、録音みたいに繰り返される。波形が右に寄り、静電ランプがまた点く。点滅が早い。優は思わずガラスを叩きそうになったが、叩くのは間違いだと、頭のどこかが止めた。叩けば、澪の耳に余計な音が入る。音は風だ。いまは風を乱さない。
「美凪、いける?」
加瀬が左のカプセルに視線を投げる。美凪は目を開けて頷いた。頷き方が、今度は強い。彼女は左手を仕切りの開口へ伸ばす。白い布で覆われた通路に、細い指が差し込まれる。指の先に、まだ遠い澪の右手。
「澪ちゃん、こっち」
美凪の声は小さい。小さいのに、届く。届く声は、声帯だけで出していない。胸の芯子の灯りが、声の支えになっているように見える。澪の目が、ようやく軽く動き、開口のほうへ寄る。右手が、ためらいながらそこへ近づいた。
指が触れた。
白い布越しに、骨と骨が、冷たさと冷たさが、慎重に重なる。重なった瞬間、澪の波形が、一拍だけ落ちた。落ちるというより、足場を見つけたみたいに、山の傾きが緩む。
「終わりたい気持ち、私もあるよ」
美凪が言った。声は泣いていない。泣きたいときの声ではない。どこかで笑っている声。笑いながら、真剣な話ができる種類の声。
「ある。いっぱいある。痛いの、嫌だし、怖いし、眠いし、寒いのも嫌。わかる。だから——」
彼女は一度だけ息を大きく吸い、吐いた。吐く隙間で指を握り直し、言葉の温度を上げる。
「——一緒に終わらせよう、ちゃんと。最後まで。逃げないで。ちゃんと、終わり方を選ぼう」
仕切り越しの指が、もういちど強く重なる。優はガラスのこちらで、自分の指もぎゅっと握った。加瀬の視線が、澪に戻る。技師の手がダイヤルの上で待機し、静電ランプが一度点いて、消える。
「……一緒に?」
澪の声が、ようやく生身の声に戻る。問いの形をしている。問いができるうちは、まだ戻れる。
「一緒に。勝手に終わらせないで。私の『また明日』の分、ちょっと残して」
美凪は、いつもの言葉を使った。毎夜の合図を、ここに持ってきた。合図は儀式になる。儀式は人の足を止める。止められた足は、もう一度、正しく踏み出せる。
「……わかった」
澪の喉の筋が、はっきりと緩んだ。目の焦点が戻り、波形の山が肩に優しく折りたたまれる。右の線が左へ寄り、二つの線が、山を外して、肩だけ重なった。重なり方が、さっきまでより正確だ。静電ランプは点かない。モニター右上の数字が、五十三、五十四、と短く階段を上る。優は息を吐いた。吐いた息が、ガラスに薄く白い曇りを作り、すぐに消える。
「リンク、安定。二十秒、保持」
技師の声に、部屋の空気がわずかに柔らかくなる。加瀬は端末にペンを走らせ、短い行をひとつ足した。
——共鳴二重核、片寄り発生。触覚同期+対話で回復。感情の言語化、効果あり。
「切る」
合図で、二人の線がきれいに離れた。離れたあと、呼吸の数が一つずつ落ち着いていく。落ち着いたところで、加瀬が「ここまで」と告げた。今日はこれ以上、深く行かない。深く行けるという手応えがあるときにこそ、引き返す。
カプセルの蓋が持ち上がり、赤い内側の光が部屋に溶ける。美凪は額に汗を浮かべ、息を整えると微笑んだ。澪は最初、無表情だった。数秒後、唇が震え、目尻が濡れた。泣きながら笑った。笑いながら泣いた。
「……終わらせ方、練習できた」
彼女が呟いた。呟いた直後、自分で驚いたような顔をして、もう一度笑って、今度はきちんと泣いた。涙の出し方を思い出した子どもみたいな、正直な泣き方だった。美凪は仕切りの「手をつなぐ穴」から指を抜き、代わりに手の甲をそっとガラスに当てた。二人の手の形が、薄い壁の両側で重なる。
優は、ガラスのこちらで大きく息を吐いた。膝から力が抜けそうになるのをこらえ、深呼吸を一度。加瀬が隣で、端末の画面を長く見ていた。見て、見て、目を伏せた。
「結果は?」
優が問う。問う声が思ったより低かった。喉の奥で固いものがまだ転がっている。
「成功率は上がった」
加瀬の声は平らだ。数字を読み上げる前に、言葉の温度を整えようとしている。
「五十八パーセント」
部屋の空気が、一瞬だけ軽くなる。技師が顔を見合わせ、短く頷き合う。五十八は、曇りと晴れの境界線を越えている。傘を持っていくか迷っていた朝に、空の色がひとつだけ明るくなったときの数字だ。
「ただ」
加瀬は、一拍置いた。置き方が丁寧で、そのぶん、次の言葉が重くなるのを誰もが知った。
「共鳴時の統計。片方の生存率が、極端に低い。二重核は、成功率を押し上げる代わりに、誰かが『先に』壊れる」
優の背中に、薄い寒気が走った。寒気は汗の膜を薄く波立たせる。ガラスの向こうで、澪の涙は止まり、笑いが小さく残っている。美凪は、ゆっくりと目を閉じて、また開いた。
「先に、って、どっちが」
優の問いは、誰もが呑み込んだやつと同じだった。加瀬は首を振る。
「条件で変わる。体調、その日の気圧、リンクの深さ、呼吸の合い方……いくつもの小さな要素。固定の順番はない。どちらにも、順番が回る」
「確率は、数字は」
「今日のデータでは、美凪——四十二。澪——三十五。いまの時点での予測値。深さと時間で上下する。私の予測は間違うこともある」
数字はやさしくない。やさしいのは、数字を読む人間だ。優は喉の固いものを、あえて飲み込まずに残した。残したまま、ガラスの向こうの二人を見た。美凪は笑っていた。笑いの中身は複雑で、それでも、きれいな笑いだった。
「終わらせ方、決められるなら」
美凪が先に口を開いた。声は細いが、揺れていない。
「練習、もっといるね」
「うん」
澪が鼻をすすり、頷いた。頷くたび、目の縁に新しい涙が生まれては、小さく落ちる。落ちた涙は、機械の床を濡らさない。濡らさないのに、床が少しだけ湿る気がした。
休憩。紙コップの水。タオル。導線の接着部を優しく剥がし、肌の跡を確認する。美凪の指先は冷たく、握れば少しだけ温かくなる。澪の指先は緊張で硬かったが、今は柔らかい。柔らかさは、今日だけのものではない。次にも、続く柔らかさだ。
「世界の呼吸、書く?」
優がノートを取り出す。表紙の角は擦り減り、昨日のアーチの粉がまだ薄く残っている。美凪は笑ってうなずき、今日の欄にペンを走らせた。
——共鳴、片寄り。澪の手、冷たい。私の手も、冷たい。
——終わりたい、って言葉、危ない。言葉もコアに届く。
——一緒に終わらせよう、ちゃんと。声、届いた。
——リンク、安定。数字、五十八。
——でも、順番。先に壊れる。
——終わり方、練習。終わらせない練習も、する。
余白に、仕切りの小さな穴と、そこに重なる指の絵を描く。下手でもいい。下手な絵は、記憶に強い。
夕方。窓の外の雲は薄く、今日の月はまだ昇っていない。港のクレーンが二つ、影絵みたいに並んで立ち、遠くの風鈴は鳴らない。鳴らない夜も、悪くない。鳴らないときは、自分で鳴らす。優は小さく指を振り、ガラスの縁を弾いた。乾いた高い音が、部屋の角で一度跳ね、消える。
「今日は、ここまで」
加瀬が宣言する。宣言の声は軽く、終業のチャイムみたいに、いつもの場所に納まった。技師たちが計器を落とし、端末を閉じる。誰も、大きな声を出さない。声を使わないかわりに、うなずきが行き交う。
扉の外で、海斗が待っていた。制服の袖は相変わらず擦れている。彼は敬礼せず、軽く顎を上げた。
「どうだった」
「五十八」
優が答えると、海斗は「おお」と言って、それきり言葉を足さなかった。少しだけ口角が上がる。上がった瞬間、すぐに戻す。戻し方が、今日だけ少し雑だ。雑なのは、喜んだ証拠だ。
「先に、って話は聞いた」
彼は視線を床に落とし、靴のつま先で線のないところをなぞる。線は見えないが、踏み外さないように歩く仕草は、人が場所を大事にするときの仕草だ。
「見張る。俺も。見張るの、得意だし」
「頼む」
優は短く言い、肩を軽く叩いた。叩いた感触が骨ばっていて、昔と同じだった。昔と同じが、今はありがたい。
夜。屋上に上がると、月が薄く昇っていた。昨日より丸い。白い粉のアーチは半分が消え、残り半分だけが線の形を留めている。美凪はアーチの残りを指でなぞり、粉を指先に付けた。澪も、少し遅れて同じことをする。指先の白が、月の光をつかまえる。
「終わりたいって、言っちゃった」
澪が苦笑する。声は落ち着いている。落ち着いているから、反省は深すぎない。
「言ってよかったよ」
美凪が言う。即答だった。
「隠すと、勝手に増えるから。言葉にすると、風になる。風なら、向きを変えられる」
「向き、変えられた?」
「うん。二人で」
澪は空を見上げ、口元だけで笑った。笑い方が、今日だけ少し上手だ。優はその横顔を目に焼き付ける。写真じゃない。目で、覚える。覚えたものは、眠っても消えにくい。
「加瀬さん」
優が振り返ると、彼女は屋上の縁に手を置いて、月を見ていた。視線に力はあるが、今は誰の背中も押していない。押さない強さの使い方を、彼女は覚えたのだ。
「終わりの練習、ありがとう」
優が言うと、加瀬はほんの少しだけ目を細めた。
「どういたしまして。私も、覚え直しているところ」
「何を?」
「失敗の仕方」
彼女は明るくはない声で、しかし暗くもない声で言った。
「うまく失敗できれば、次が生きる。私たちの終わりは、世界の次を生かす終わりじゃないと困る」
強い言葉だった。強いのに、人を追い立てない。屋上の空気が、それを受け止める。四人は並んで月を見た。風鈴は鳴らない。鳴らないうちに、誰かが小さく拍手をした。誰かが、というより、今日が拍手をした。一度だけ。すぐに止む。止んだ拍手が、「また明日」を呼び込む。
美凪が、優の袖をつまんだ。つままれたところの布が少し冷たい。冷たいのに、心臓の近くは温かい。
「また明日」
「また明日」
四人で口にする。声の高さはばらばらだが、拍は合っている。拍が合えば、合唱になる。合唱に名前は要らない。屋上のアーチは、そのまま。粉は明日、また増えるかもしれない。減るかもしれない。減ったら描けばいい。描けるうちは、大丈夫だ。
部屋に戻る前、優はノートに最後の一行を足した。
——失敗の仕方を習う。終わり方を選ぶ。順番に負けない。
ペン先が震えた。震えごと、字になった。字は、読む誰かの呼吸の数を一拍だけ増やす。増えた一拍で、世界の浅い息が、わずかに深くなった気がした。気がしただけでも、今日は充分だ。数字は五十八のまま。けれど、月は昨日より大きい。みんなで見たから。そう決めて、ライトを一つ落とした。夜は、やわらかく長くなった。明日は、その長さの続きにある。
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