第16話「境界線」

 車のガラスに、夕暮れが浅く貼り付いていた。

 研究棟へ向かう舗装路は、震災で割れたアスファルトの継ぎ目を白いペンキで塗りなおしてあり、線の太いところと細いところが交互に続く。直した人の手つきが、そのまま地面に残っていた。車輪が境界線をまたぐたび、サスペンションが小さく鳴り、車内の空気が一秒だけ揺れる。

 ハンドルを握る加瀬は、普段より低い姿勢だった。シートに背を預けるというより、背骨を一つずつ丁寧に立てて、そこに体を通している感じ。横顔は、窓の外の白線と同じくらい、まっすぐだ。

 「言っておくね」

 信号のない交差点をゆっくりと抜けながら、彼女は言った。アクセルを踏む足に力はないが、言葉にだけ力がある。

 「私はずっと、世界か娘かで選べなかった。選ぶという言葉の形が、どちらをもひどくする気がして。だから君たちには、なるべく、選ばせたくなかった」

 後部座席で、優は美凪の手を握っていた。折り紙の指輪は紙の角が少し丸くなり、皮膚になじみはじめている。彼は言葉を探しながら、フロントガラス越しに、海に向かって伸びる送電線を目で追った。線は遠くで揺れて、空と地面の境目に沈んでいく。

 「選ぶのは、怖い」

 美凪が先に口を開いた。シートベルトの斜めの線に胸の灯りが隠れ、光は喉の下で弱く呼吸を続ける。

 「でも、逃げるのは、もっと怖い。逃げ癖がつくと、笑いが嘘になる。うちは、笑いにだけは嘘つきたくない」

 バックミラーごしに加瀬の目が動いた。短く、うなずく。

 「わかった。じゃあ、今日からは、選ぶための手順を全部見せる。最終段階の前に、境界線を一本ずつ確認する」

 研究棟が近づくにつれ、路面の白線は黄色と黒の縞に変わった。立入禁止と許可区域の境界を示すテープが、道の左右で二重に張られている。風が薄いせいで、テープははためかない。ただ、色だけが強い。色の強さで、ここが日常ではないことを知らせてくる。

 ゲートの前に車が止まると、海斗が立っていた。軍警の制服は袖が少し擦れて、肘の布に塩の白い跡が浮いている。彼は帽子のつばを人差し指で持ち上げ、きちんとした角度で敬礼した。

 「任務に戻ります」

 それだけ言って、視線を優に一秒だけ置き、それから横に滑らせた。あの日、交差点でルートを変えたときと同じ、素早い視線の使い方。言葉は少ないのに、その一秒が、三日分の会話の重さを持っていた。

 「おう」

 優は短く答えた。いま長く言うと、胸の奥で何かが崩れてしまいそうだった。海斗は頷き、ゲートの横のドアを押して中へ消える。残ったのは寄せては返さない風のない空気と、境界線の色だけ。

 集中区画へ入る前のロッカーで、靴を履き替える。ゴム底が床のグリッドにぴたりとはまり、音が少しだけ鈍くなる。白い壁に沿って、消毒の匂いが薄く流れ、蛍光灯の明かりが天井の反射で二重になっている。加瀬が腕の端末をかざすと、透明なドアが左右へ引いて開いた。境界線の内側。空気の密度が少し違う。肺が、ここでの呼吸を思い出す。

 「戻ったら、続きを話そう」

 ドアの間際で、優は美凪の手を強く握った。指の骨が触れる。触れた場所だけ、熱が丁寧に移る。痛みにならない程度の強さ。でも、離したくないと伝えるには充分な強さ。

 「うん」

 美凪は短く頷いた。頷く量で、体力の残りを測る癖が、もう二人にとって合図になっている。今日は、二回ぶんある。

 ドアが閉まり、空気が入れ替わる音がする。訓練が再開された。モニターが並ぶ制御室に入ると、壁一面の画面に世界地図が投影されていた。海の色は深く、陸地は薄い灰。ところどころに、呼吸を止められた地域——無風域——が色を反転して滞っている。反転したまま戻らない場所が、まだ多い。地図の上に細かな等圧線が描かれ、極の周辺は線が絡まって結び目になっていた。

 「これが現状」

 加瀬が棒を持つ。先端の赤い点が、地図の中央から南へ滑り、そのたびにモニターの小さな数字が入れ替わる。数式は出さない。画面の隅に「無風域指数」「海洋死層深度」「磁気乱流密度」とだけ表記され、きれいすぎるフォントが、現実がまだ動くことを示す。

 「最終段階“全地球再呼吸”のシーケンス。三段階で動く」

 スクリーンの左側に、短いリストが現れた。数字は三つだけ。文字は簡単。読み上げれば、誰にでも意味がわかるやり方。

 「一、極渦の切断——北半球と南半球の空の結び目を、一度、ほどく。二、海洋の攪拌——死層の上に新しい水の道をつくる。三、磁気の整流——乱れた針をそろえて、呼吸のリズムを戻す」

 「成功率は」

 優が先に問う。加瀬は画面の右上隅に視線を移した。白い数字が、無造作にそこに置かれている。

 「四十八パーセント」

 半分に届かない数字は、確率という言葉よりも、天気予報の曇りマークに近い。雨かもしれないし、晴れるかもしれない。傘を持つ手が迷うタイプの曇り。けれど、迷う時間がないのは知っていた。

 「失敗すれば」

 「大規模な静電嵐が起きる。空気の薄いところから順番に、沈黙する。人が残っている場所も、声を失う。電気は暴れて、海は一度、目を閉じる」

 言葉は淡々としているが、選んだ単語が正確だ。「目を閉じる」は、科学の言葉ではない。軽くない。軽くないのに、目に入る。部屋の温度が薄く下がる。どこかで、エアコンの風量が一段上がった。

 「やるなら、早いほうがいい」

 美凪が言った。声は小さく、しかし、はっきり。彼女の胸の芯子が服の下で弱く明滅し、制御卓の数字がそれに合わせて小さく揺れた。揺れはすぐ戻る。戻れるうちは、大丈夫だ。

 シミュレーション室に移動する。壁、天井、床、すべてが白で統一され、中央に半球状のカプセルが据えられている。カプセルの内側は、心臓みたいな赤色で、微弱な振動が足の裏まで伝わる。周囲には、呼吸のテンポと同期するように作られた小さなライトが点在し、医療機器と工業機械の中間の匂いが薄く漂った。

 「今日はここまでの覚えを、もう一度、体に落とす」

 加瀬の声で、技師が二人、淡々と動いた。美凪の背中に沿って、薄い導線が貼られ、胸の芯子の端子が短いケーブルでカプセルとつながる。金属の冷たさに肩が一度だけ縮む。縮んだ肩を、優はガラス越しに見た。見ただけで、背中に手を置いたときと同じ場所に自分の手の温度が戻ってくる。不思議な錯覚だ。でも、錯覚は夜を渡るのに役に立つ。

 「吸って、吐いて」

 スピーカーから、規定の声が流れる。機械の声ではない。生身の声を録音したものだ。数えるテンポが、人の歩幅に合わせてある。三歩で吸って、四歩で吐く。歩かないのに、体が前に出る。

 優は観察用のガラスに手をついた。手のひらとガラスのあいだに、薄い空気がはさまる。はさまった空気の温度が、ゆっくりと指に移る。ガラスの向こうで、美凪が目を閉じ、口角をわずかに上げた。笑いではない。安心の作法に近い小さな表情。

 「大丈夫」

 口がそう動いた。声は出さず、唇だけで言った。優は頷き、ガラスのこちら側で自分の呼吸を合わせる。吸って、一、二、三。吐いて、いち、に、さん、し。隣で、加瀬が手元の端末に短い注記を入れた。字は小さく、線はまっすぐ。

 ——被験者M:音声なし、表情による自律安定。ペア呼吸の外部同期、効果あり。

 「ペア呼吸」は、医学用語なのか家庭内語なのか、紙の上では同じ顔をしている。言葉のほうが、こちらの側へ寄ってくる。

 ライトが一段明るくなり、シミュレーション第一段階が始まった。極渦の切断。モニターの地図で、北の円がゆっくりほどける。ほどける速度は、呼吸の深さと連動している。深く吸い、細く吐くほど、円の結び目は素直に緩む。早くやろうとすると、結び目は逆に固くなる。焦りを嫌う結び目だ。

 「良好」

 技師の短い声。次は海。海は、優が苦手な対象だ。広すぎて、目がどこにも焦点を置けない。画面上で死層の茶色が薄く緑に置き換わる。薄い緑は、息を足せば増える。足しすぎると、濁る。呼吸に、料理の火加減みたいな判断が必要になる。

 「ゆっくり」

 加瀬が小さく言った。彼女のその一語は、命令ではない。いい先生の「ゆっくり」は、守りやすい。

 第三段階、磁気の整流。コンパスの針が、砂鉄に引っ張られないように揃えられていく。画面の右下、成功率の数字が四十八から四十九へ、一瞬だけ上がり、すぐに四十八に戻った。戻るにしても、上がる瞬間がある。瞬間があるだけで、体の中の硬さが一箇所、勝手にほぐれる。

 そのとき、制御卓の隅で黄色いランプが点滅した。静電センサーの表示が、きゅ、と一段跳ねる。外の雲が、薄い膜を一枚だけめくった。めくりかけて、躊躇する。躊躇いのタイミングで、部屋中の空調が一度だけ息を合わせそこね、空気が少し重くなった。

 「落ち着いて。粒子、流入比率、上がる」

 技師が告げる。加瀬は手で制御卓のダイヤルを一つだけ回し、同時にガラスのこちら側の優に目で合図した。合図の形は、屋上で老女が使っていたのと似ている。「いける」という顎の角度。

 優はガラスに額を寄せ、手のひらを広げた。美凪が目を薄く開く。遠くにいるのに、息の合図は近い。近さは距離ではない。合わせる気持ちの側に寄る。

 吸って。

 吐いて。

 彼は声に出さず、唇で言った。美凪の胸の灯りが、規則を取り戻す。カプセルの赤い内側が、呼吸に合わせてほんの少しだけ明滅をやわらげる。黄色いランプは二度点滅し、静かに消えた。

 「クリア」

 技師の手が机を軽く叩く。加瀬は息を短く吐き、端末にまた一行書き足した。

 ——外部同期、ノイズに対する耐性、統計的有意差。

 言葉の強さが、少しだけ戻る。部屋の温度が、一度だけ上を向く。境界線のこちら側にいる人間たちが、それぞれのやり方で安堵の作法を実行した。

 休憩が入った。カプセルの蓋が軽く持ち上がり、内部の赤が空気に溶ける。美凪の額に薄い汗が光っていた。タオルで拭こうとして、優はふと手を止めた。加瀬が制御卓の引き出しを開け、透明な袋から滅菌済みの薄い手袋を取り出して彼に渡す。

 「今日は、触っていい」

 許可の声だった。彼は小さくうなずき、手袋をはめる。ビニールの薄い音が、指の節に沿って鳴る。手袋越しに触れる額は、すこし冷たく、汗で少し暖かい。矛盾が、うまい温度を作る。

 「水、飲む?」

 「すこし」

 ストローで口元へ運ぶ。喉が下がり、芯子の灯りが一拍遅れて穏やかに光る。美凪は目線で、優の肩の右を指した。そこに貼られた小さな紙片——屋上で描いたアーチの切れ端を、彼はポケットにしまって持ってきていた。白い粉が、ほんの少し手袋に移る。研究棟の白とは別の、町の白。

 「アーチ、連れてきた」

 「強い」

 彼女は笑い、また息を整える。休憩は短く、訓練は続く。次は、最終段階用のバックアップシナリオの確認——もしもの時の、線。境界線の内側に、さらに細い線を引く作業だ。

 「もし、静電嵐の予兆が出たら、出力を落とす。落とし方は三通りある。ひとつ、機械側でカット。ふたつ、私の側で抑制。みっつ——」

 加瀬は一度、言葉を切った。切り方は鋏の切り方で、誤差を作らない。

 「——彼女自身が、手放す」

 部屋の空気が、いちどだけ静かになった。言葉の重さに、機械の音が半歩譲る。優は手袋の中の手を握った。握った拳が、自分の肋骨の内側を軽く叩く。

 「それは、最後の最後」

 美凪が言った。声は、怖がりを連れていない。怖さは、息の数で隠すのではなく、息の数に託す。託された怖さは、泣きそうな子どもの手を握るときみたいに、別の温度に変わる。

 「うん。最後の最後」

 加瀬は頷き、視線を地図に戻した。地図の南半球で、等圧線が一つ、細くほどける。ほどけた線の端が、もう一つの線にそっと重なる。重なり方には、優しいやり方と乱暴なやり方がある。今日は、優しい。

     *

 夕方、訓練は一旦終わった。集中区画の外の休憩室は、窓が小さく、ベンチが二つ。自販機は動かず、紙コップだけが整然と並ぶ。壁の時計は電波を拾えず、秒針が同じところを二秒ずつ行き来している。時間の境界線が、壁の上で迷子になっていた。

 「三日間、ありがとう」

 加瀬が紙コップに水を注ぎながら言った。言い方が、なぜか「ごちそうさま」に似ている。

「こちらこそ」

 優が答えると、彼女は珍しく口数を増やした。

 「娘の話を、してもいい?」

 彼女が、自分からその話を切り出すのは初めてだった。優はうなずく。美凪も、ベンチの端で姿勢を正す。

 「小さかった。風鈴が好きで、夜の匂いに名前をつけるのが上手かった。病気がわかって、選ぶことが増えた。あの頃、私は選べなかった。世界のほうを見ると、娘のほうが泣く。娘のほうを見ると、仕事の紙が泣く。どっちも泣くから、真ん中を見ていたら、どっちにも届かなくなった」

 言葉は淡々としているが、置いていくものの重みは淡々ではない。彼女はコップの縁に指を置いた。指は細く、骨の形がはっきりしている。

 「だから、君たちに三日を渡した。選ぶ練習になると思った。三日は短い。でも、短いものは濃くできる」

 「濃かった」

 優は笑う。笑いながら、胸のどこかが熱くなる。濃さは、甘さではない。甘くない濃さは、喉に残る。残っているから、明日にも持ち越せる。

 「境界線はね」

 加瀬は窓の外を指さした。白と黄色のテープが、地面にもう一重追加されているのが見えた。訓練中に、誰かが新しく張ったのだろう。

 「引くものだと思ってた。でも、今日、少し考えが変わった。境界線は、折り目かもしれない。折って、重ねて、薄く強くなる。アーチのチョーク、残してきたでしょう」

 「見えました?」

 「見えた。いい線だった。あれは境界線じゃない。重ねる線。だから、ここにも一本、重ねておく」

 彼女の言葉は、研究棟の白い壁に似合わない温度を持っていて、妙に安心させた。境界線という言葉と、アーチという言葉が、矛盾せずに同じテーブルに座っているのが嬉しかった。

 休憩室の扉が開き、海斗が顔を出した。帽子を持っていないので、敬礼の代わりに短く顎を上げる。表情は固いが、目が少しだけ柔らかい。

 「さっきの……静電、危なかったな」

 「うん。でも、持ちこたえた」

 優が答えると、海斗は一瞬だけ、口の端を上げた。笑うというほどではない。けれど、終業式の全校集会で遠くの友人と目が合った時の、それに近い合図。

 「任務に戻る。また見守る」

 「頼む」

 彼はそれ以上何も言わず、扉を閉めた。閉める音が、なぜかやさしい。扉の音に「また明日」と書かれている気がした。気がしただけでも、今日のところは充分だ。

     *

 夜、集中区画の照明は二割落とされた。薄暗い中で、モニターの地図が静かに光る。等圧線が一本、日中より素直に伸びている。世界が、少しだけ、息をする準備を始めたみたいに見えた。

 「最終段階のリハーサルを、あと二回。明日は一回、明後日、本番。気象窓が開く確率がいちばん高いのが、明後日のこの時間帯」

 加瀬が指で、画面上の薄い帯をなぞる。帯は、見逃しそうな薄さで世界を一周している。そこに合わせて、この町の夜と、太平洋の朝と、南の海の薄い夕暮れが、同時に呼吸のタイミングを作る。

 「四十八パーセントは、変わる?」

 優が尋ねる。彼は数字が嫌いではない。嫌いではないが、数字が範囲で語ることと、人が一秒で感じることの差を、いまは誰よりも実感している。

 「変わる。さっき四十九になった瞬間を、見逃してない」

 「見てた」

 「瞬間を積んでいく。積んでいったぶん、確率はその形になりたがる」

 理屈というより、祈りに似た言い方だった。でも、祈りだけではない。加瀬の声には、長く硬い廊下の歩き方を覚えている人の、骨の確かさがあった。

 見学室を出る前に、美凪はノートを開いた。世界の呼吸記録。研究棟に持ち込むのは初めてだ。表紙の白が、ここでは少し浮いて見える。けれど、浮いているものは、沈むより扱いやすい。

 ——訓練:極、ゆっくりほどける。海、火加減むずかしい。磁気、針そろう。

 ——数字:四十八。瞬間、四十九。

 ——休憩:水、おいしい。アーチ、持参。

 ——境界線:引くもの→折るもの。重ねると強い。

 ——また明日。

 最後の行を書いたとき、ペン先が一瞬だけ震えた。震えは、止めなくていい。震えの字は、読む人に呼吸を思い出させる。呼吸が戻れば、世界の浅さが一拍ぶん、深くなる。

 「戻ったら、続き、話そう」

 集中区画の扉の前で、優が言った。言い方は、三日前と同じ。けれど、意味は少し違う。あのときは、町へ戻る続き。今日は、ここからまた始める続き。

 「話す。……ちゃんと話す」

 美凪は頷いた。頷く速度が、昨日より遅い。遅いのに、強い。芯子の灯りが、胸の内側で規則的に明滅する。規則的、という言葉が、今夜はやけにうつくしく聞こえた。

 扉が開く。境界線の向こうに、眠らない機械の光が並ぶ。境界線は、今日、一本増えた。でも、増やしたのは線ではなく、折り目だ。折り目は、チョークのアーチと同じで、軽く、強い。

 「また明日」

 優が言う。加瀬も、ほんの少し口の端を上げて繰り返す。

 「また明日」

 言葉が、ドアの縁で薄く反響した。薄い反響は、遠くの海まで届くほどの頑丈さはない。でも、この部屋の中に留まって、必要なときに必要な人に触れるには充分だ。

 夜の研究棟は、静かだった。風はない。ないけれど、音が走る。機械の規則正しい音。人の息の音。誰かが紙をめくる音。誰かがペンを置く音。すべてが、同じ拍の上に乗っている。

 世界地図の端で、等圧線が一本、わずかに太くなった。理由は、今は誰にもわからない。けれど、境界線のこちら側にいる三人は、それを見た。見たから、記録する。記録された線は、明日、もう一度ここに戻ってくる。

 四十八は、まだ四十八だ。けれど、四十九になる瞬間が、今日、確かにあった。その瞬間のために、選ぶ。逃げないために、手を握る。握った手が、境界線を越えるとき、紙の指輪が、音を立てずにかすかに光った。紙なのに、強い。紙だから、強い。

 境界線のこちら側で、彼らは呼吸を合わせた。吸って、吐く。吸って、吐く。世界の浅さに、ゆっくり厚みが足されていくのを、誰も見ていないのに、誰もがわかった。明日は、今日の続きにいる。そう決めて、灯りがひとつ、またひとつ、静かに落とされた。

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