第9話「家族会議」

 会場は、町役場の三階にある古い講堂だった。壁の木目は日に焼け、避難訓練のポスターが色あせている。長机がコの字に並べられ、前方の演台の後ろには、臨時設置のスクリーン。投影されるのは「家族説明会」の四文字と、役所の紋章。無風のせいでカーテンは動かず、空調の音だけが規則正しく続く。

 「これより、適合者の家族を対象とした説明会を始めます」

 前に立つのは省庁の腕章をつけた男で、読み上げる声は教科書の音だった。その隣で加瀬が白衣の胸元を整え、無駄のない姿勢で座っている。視線は紙の上と会場を行き来し、顔の筋肉はほとんど動かない。

 長机の端に、優の両親が座った。父は漁師だ。日に焼けた首筋、太い指、癖のある眉。避難命令が出ても最後まで港に残り、網の手入れをしていた。母は小柄で、手の甲に洗剤焼けの痕がある。手を組んだまま、爪の先を見ている。

 向かいの列には美凪の母がいた。普段は美容院を切り盛りしている人だが、今日は店のエプロンではなく、無地のカーディガン。膝の上のハンカチを折っては開く。目の下のくすみが深い。

 会場の後方には、他の家族、そして黒い制服の軍警。海斗の姿もある。バイザーは上げ、視線は一定の高さを保っている。彼の手元のメモ帳は、角がやけに磨り減っていた。

 スクリーンに、簡略化された図が映る。恒星炉の模式図。海と空の矢印。適合者のシルエット。出力と負荷のバー。説明は淡々と進む。

 「中規模稼働に移行するにあたり、適合者の生体負荷が一段階上がります。監視体制は強化し、休息サイクルは短く、しかし密に取ります。栄養補助は倍増します。短時間外出は原則停止。ただし医師の判断で、制限付きの散歩は許可されます」

 整った言葉が並ぶ。並ぶたび、椅子のきしみが増え、机の端の古いキズが目に入る。説明の合間に、質問の時間が区切られた。

 「質問のある方は、挙手を」

 誰もすぐには手を上げない。沈黙が一度、部屋の上澄みに浮いた。空調の音だけが、妙に元気だ。たまりかねたように、後方で椅子が引かれた。

 「おい」

 優の父だった。補助席をがたんと鳴らして立ち上がり、腕章の男ではなく、真正面の加瀬を見た。喉の奥から出る声は、海風で荒れた木の表面みたいにざらついている。

 「命を使う、ってのは、どういう話だ。親から見りゃ、娘じゃなくても子は子だろ。うちは息子だ。あんたらから見りゃ、番号かもしれんがな」

 会場の空気が揺れた。揺れたのに、カーテンは動かない。無風の中で、誰かの熱だけが、空気を少し動かす。

 腕章の男が口を開きかけたが、加瀬が先に立った。白衣の裾がほんの少しだけ揺れる。

 「ご家族の不安は当然です。すべてを説明できるとは言いません。けれど、できる限り、手順で守ります」

 「手順で守れなかったら?」

 「次の手順を用意します」

 「手順ってのは、都合のいい言葉だな」

 父の声は大きくなり、最後のほうで少し震えた。怒鳴り声というより、海鳴りが堤防にぶつかる音に近い。母が袖を軽く引いた。「もう」と小さく言う。父は顔をしかめ、椅子に腰を下ろした。座ったが、体はまだ立っているみたいに硬い。

 前列で、美凪の母が手を上げた。声は細いが、芯がある。

 「この子はね、昔から風の音を追いかけてたんです」

 視線が集まる。彼女は自分の膝の上に視線を落とし、言葉を選ぶみたいに間を取ってから続けた。

「風鈴が鳴ると、窓のところへ走っていって、ずっと耳を澄ませて。夏祭りの夜、風鈴市で一番小さいやつを選んで、じっと音を聴いて。鳴らない日には、氷の入ったコップを扇風機の前に置いて、『風をつくる』って笑っていた子です。向いてる、向いてないじゃない。あの子は、風のほうに歩いちゃう子だから」


 彼女は途中でハンカチを目元に当てた。目尻からこぼれた涙が布の模様を丸く濃くする。泣きながら笑う顔は、変な言い方だけど、まっすぐだった。

 加瀬は一瞬だけ目を閉じ、また開いた。医者の顔に戻る前、別の表情がわずかに混ざる。彼女はスクリーンの前に立ち、用意されていない言葉を選んだ。

 「わたしは、娘を失いました」

 静かな声だった。マイクを通す前の、生の声。会場の空気が変わる。空調の音が、急に後ろへ下がった。

 「何年も前です。原因は、今とは無関係です。けれど、失うということがどういうことかを、わたしは一度知っています。だから、手順を増やします。誰かに貼り付ける規定のためじゃない。残る人が呼吸できるように、です」

 彼女は一呼吸置き、視線を落とした。落とした視線の先に、何かがあるような目だった。写真の表面ではなく、その奥を見ているみたいに。

 「適合者は資産だと言う人がいます。間違いではない。でも、資産という言葉で安く扱えるほど、ここにいる子たちは軽くない。わたしは医者として、彼らの生きることに忠実です」

 会場のどこかで鼻をすする音がした。腕章の男は口を閉ざし、海斗は姿勢を正した。父は腕を組み直し、母は小さく息を吐いた。息の音が、椅子の軋む音と一緒に、講堂の高い天井に吸い込まれていく。

 説明会は続いた。救急搬送の手順、夜間の連絡経路、面会の時間割、差し入れの規定。数字と線が続く。続く間中、誰かの心臓の音が各自の胸の中で規則正しく鳴った。自分の音だけが頼りの世界で、皆がそれぞれに数えている。

     ◇

 帰り道、町は薄暗く、路面は昨夜の雨の色をまだ残していた。店のシャッターには新しい貼り紙が増えていて、文字が上から重ねられている。避難済の赤いスプレーが色あせ始め、そこに子どもの落書きが薄く乗る。

 港へ向かう道の角で、母が「ちょっと」と言って立ち止まった。紙袋を差し出す。厚紙の角が指に当たって痛い。袋の中には木枠の写真立てが入っていた。古いものだ。木目が浮いて、ガラスの角が少し欠けている。

 「見て」

 中の写真は、風鈴祭りの夜のものだった。提灯の下、浴衣の子どもが二人。男の子は短い髪で、口元にソースの跡。女の子は髪を二つに結び、片方の頬に小さな星シール。風鈴を二人でのぞき込んでいる。ガラス玉の中に、屋台の灯りが二つ、三つ、反射していた。

 「守ってあげてね」

 母は言った。声が低い。低い声で言うのは、言いなれていない言葉だからだ。優は写真を持ち直す。木枠が手汗で少し滑る。

 「でも、世界を理由にあの子を捨てないで」

 足元のアスファルトに、言葉が落ちた気がした。拾う前に、風鈴の残響のように耳の奥で響く。「世界を理由に」。よく聞く言い回しだ。大義のために、仕方がない、というやつ。捨てる側の便利な言葉だと母は知っている。知っているから、先に釘を打つ。

 「捨てない」

 優は言った。短い言葉に全部を入れるのは難しい。でも、長くすると薄まる。短く、厚く。

 母はうなずいた。頷きながら、空を見上げる。灰の層が薄く、端が白い。風はない。ないのに、提灯の記憶だけがひとりでに揺れる。

 家に戻ると、父は台所で魚箱を洗っていた。水道の勢いは弱い。蛇口から出る水の音が、いつもより大切そうに響く。父は顔を上げ、写真立てに視線を止める。視線は短く、言葉は出ない。けれど、手が少し止まった。止まった手の分だけ、箱の角の汚れが残る。

 「明日、稼働だって?」

 「中規模」

 「魚、戻るか」

 「鳥が先だ」

 「そうか」

 父は蛇口を止め、タオルで手を拭いた。拭きながら、眼尻の皺が少し深くなる。

 「お前、昔の祭りで、風鈴に顔を近づけて、鈴に鼻ぶつけたな」

 「覚えてたのかよ」

 「痛がって泣かないから、余計ややこしかったわ」

 父は笑い、すぐに真顔に戻った。戻り方が雑で、不器用で、でも、馬鹿にできない正直さがあった。

     ◇

 翌朝。観測棟の屋上で、空の色が一段明るくなった。灰に薄い白が差し、建物の輪郭がいつもよりくっきり見える。海の面が、遠くで細かく波立っていた。風はまだない。けれど、まるで風が来る手前のストレッチみたいに、水のほうが先に準備している。

 「中規模本稼働、開始」

 管制室の声が短く響く。加瀬が短くうなずき、操作台に手を置く。背中の姿勢は変わらないが、目の焦点が一段奥へ入った。医者であり、操縦士でもある人の目だ。

 美凪の胸の芯子が、静かに明るくなる。背中の星座が目覚め、点と点が細い線で結ばれる。ベッドの角に置かれたノートの上に、昨日の指輪が光った。ガチャの石なのに、朝の光を拾う才能だけは本物だ。

 「大丈夫」

 優がボードに書いた。ガラス越しに見せる。

 「大丈夫」

 美凪も書いた。筆圧が少し弱い。それでも、字はまっすぐだ。

 稼働。港の空に薄い幕がかかり、その幕が内側から押されるように持ち上がっていく。海の匂いが戻る。塩ではなく、潮の匂い。濡れたロープの匂い。網の匂い。船底のペンキの下に残る古い匂い。

 町内放送が慣れない喜び方で、「鳥を確認」と言った。声が上ずった。港の電柱に、ほんの小さな影が止まっている。灰色の羽に白い線。首を傾げて、鳴きそうで鳴かない。風がないから、鳥も遠慮がちに翼をすぼめている。

 「鳥」

 優がボードに書く。美凪は目を丸くし、肩で小さく息をした。息の上がり方は浅い。でも、間に笑いが挟まる。

 「鳥」

 彼女の胸の上下が、波のように薄く揺れる。パネルの数字は高くも低くもない場所で、静かに揺れていた。安定。けれど、長く続けると削れる。この稼働は短い。短く、確かに。

 「ここまで」

 加瀬が小さく合図を出す。出力が段階的に落ちる。背中の星座が、灯りを置くように順番に消えていく。最後に胸の芯子が細く明滅し、眠る。美凪はゆっくりと横たわり、目だけで窓の外を追った。鳥が一羽、電柱から二メートルだけ飛んで、また止まる。飛び方を忘れたみたいな飛び方だ。忘れたのではなく、確かめているのだ。

 終了後の測定。体温は三五度三分。指先の色は浅い。呼吸は速い。加瀬が水を少し飲ませ、のどの動きを確かめる。美凪は喉をさすり、笑った。笑い方がゆっくりだ。

 「どう」

 優がボードに書く。ガラス越しに、彼女は舌を出してみせた。

 「味、いま、どのぐらい?」

 「半分」

 「半分?」

 「唐揚げの『カリッ』しか、わからない」

 おどけた顔で、唇を尖らせる。優は一瞬言葉に詰まり、次の瞬間、笑ってしまった。笑ってから、眉をよせる。笑っていいのか、よせていいのか。両方を同時にやる。

 「カリは、味じゃないよな」

 「でも、私には今、味。音といっしょに食べるやつ」

 「音食べ」

 「新しいジャンル」

 「じゃあ、今度は『ジュワ』を開発する」

 「お願い」

 ふたりで笑う。笑いの中で、美凪の顔がほんの少し歪んだ。痛みではない。喪失が喉の奥で引っかかるときの、あの短い歪みだ。優はボードを持ち直し、文字を太くした。

 「戻る分も、探そう」

 「探す」

 加瀬が横で小さく頷いた。頷き方に、医者ではなく人のリズムが混ざる。彼女はメモに短く書く。「味覚低下:半分。聴覚補助の可能性」。丸で囲む。丸の線が少し強い。自分の娘の写真の裏に書いた丸と、同じ濃さだった。

 説明会で母が言った言葉が、優の頭のどこかで繰り返される。世界を理由に捨てないで。今、鳥が戻った。海が匂った。風鈴が鳴りそうで鳴らない。世界は理由になりやすい。理由にしていいこともある。してはいけないこともある。

 「母さんが写真くれた」

 優はボードの端に小さく書いた。美凪が首を傾げる。優はポケットから写真のコピーを取り出し、ガラスに貼りつけた。風鈴祭りの夜。浴衣の子どもが二人。ガラス越しに、そのときの金属の冷たさまで思い出した気がする。

 「これ、私の頬の星シール、ずれてる」

 「そっちは俺のソース」

 「ばかだ」

 「うるせえ」

 笑いながら、二人は写真に指を添えた。ガラス越しに、木枠の角の痛みは伝わらない。でも、視線は重なる。重なった視線が、写真の中の風鈴のガラス玉に反射する。反射は、風がなくても揺れる。

 「鳥、増えた」

 加瀬が窓の外を見て言った。電柱に、さっきの一羽の隣にもう一羽。二羽で距離を測っている。間隔が狭すぎると喧嘩、広すぎると孤独。ちょうどいい距離を探す、慎重な鳥の動き。

 「稼働は今日、これで終わり。食事をして、休む。——宿題は、今日も免除」

 「医者の権限」

 「便利な言葉」

 加瀬がわずかに笑った。笑いは短い。短いけれど、部屋の温度を一度だけ上げる。上げた温度はすぐに空調に吸われるが、吸われるまでの数秒間、誰かの肩から力が抜ける。

 面会時間が終わる。優は写真をポケットに戻し、ボードを置いた。去り際、ガラスに軽く額を当て、短く言う。

 「また」

 美凪も口の形で「また」と言い、指で「笑え」と書く仕草をしてみせた。

     ◇

 港の通りに出ると、魚屋のシャッターが半分開いていた。薄暗い店内に、空の発泡スチロールの箱が逆さに積まれている。店の奥でラジオが小さく鳴り、声が遠くで笑っている。笑いの理由はわからない。それでいい。理由がなくても笑えるなら、それは健康の証だ。

 電柱の鳥が、一メートル飛んで、また止まった。通り過ぎる風はないのに、羽根の端がわずかに震える。体の中の循環だけで、羽根は動けるらしい。動かない世界の中で、動ける部分だけを使って、まず一歩。

 優は写真立ての木の匂いを指先に残したまま、家路を歩いた。角を曲がるたび、昨日までと違う色が目に入る。濡れた看板の青がすこし鮮やかで、錆びの赤がすこし鈍い。差はわずかだ。けれど、わずかの積み重ねを、ここにいる人は知っている。網を直すとき、一本ずつ結び直す。結び直したぶんだけ、海に出られる。

 家の前で、母が玄関の掃き掃除をしていた。ほうきの先が砂を鳴らす。母は顔を上げ、短くうなずき、何も言わない。言わないで済むなら、それが一番だ。言葉はときどき、体力を使う。

 台所には、昨夜のパンケーキのフライパンが残っていた。洗い忘れ。端の砂糖が固まって、薄い透明の膜になっている。指で割ると、ぱり、と小さく鳴った。音が口の中に寄ってくる。カリ。ジュワ。音で食べる練習を、今日から本気で始める。

 居間の壁の時計が、針を動かす音だけは元気だ。元気な音に合わせて、優は写真を棚に置いた。風鈴祭りの夜。ガラスの中の灯りは、今の朝の光に似ている。似ているから、つながる。つながるなら、続く。

 携帯端末が震えた。加瀬からの短いメッセージ。「良い兆候」。三文字が並ぶ。説明会の言葉とは違う、個人的な重さ。続けるための合言葉。短く、確かに。

 返信は一行だけにした。「また明日」。文字を打ちながら、喉の手前で名前を温める。呼べば、戻る。戻る場所は、さっき増えた。港の電柱の上と、ガラスの向こうと、写真の中。増えた分だけ、息を配る。

 窓の外で、風鈴は鳴らなかった。鳴らないけれど、鳴りそうな顔をして垂れている。鳴らないものを見ている時間が、今日は嫌いじゃない。鳴らないあいだに、やれることが増えた気がするから。

 唐揚げの皿を出し、ひとかけらを口に入れる。味は半分。塩と胡椒の輪郭は曖昧だ。けれど、歯が衣を割る「カリ」が、口の中でちゃんと鳴る。鳴った音が、味のほうへ少し色を分ける。分けられるなら、きっと戻せる。戻せるなら、探す。

 優は指先で木枠をなぞり、写真の中の子どもに、少し遅れて手を振った。遅れても、届く。遅れることで、届くこともある。遅れた分だけ、丁寧になるから。

 世界は明るくなった。まだ薄い。けれど、薄いままでも、明るさは明るさだ。港に鳥が戻り、海に匂いが戻り、笑いに理由がいらない時間が一秒だけ戻った。たった一秒。でも、その一秒のために、町は拍手できる。

 「また」

 喉の手前の名前が、言葉にならないまま部屋の空気に溶けた。言葉にならなくても、約束の形だけは残る。明日、また借りる。借りて、返す。返すときには、少し増やして返す。パンケーキの砂糖の膜みたいに、薄くても、甘さを足して。

 家族会議は終わった。家族の仕事は続く。守る、という言葉が膝の上で重くならないように、持ち方を覚える。世界を理由にしてしまわないように、短く確かに言う。捨てない。捨てないで、続ける。

 窓の外、電柱の上で、鳥がもう一メートル、飛んだ。止まった。首を傾げた。鳴かない。鳴かないけれど、空は少しだけ、鳴き声の準備をしている。そういう朝だった。

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