INVISIBLE JOURNEY
天萌 愛猫
一日目 Departure
もう疲れた。
そんな愚痴を言える人すらいなくって、ときに愚かないきものはくるうことがある。
スーツケースをガラガラと引きずりながら、近くの無人駅で切符を買う。
きっと酷い顔だと思うから、対人の必要がないことに少し安堵する。
動きの悪い券売機がようやっとといった感じで吐き出した掠れた印刷の紙切れを、くしゃくしゃにつぶれてしまわない程度の力で手に握り込む。
うまい具合に電車が来た。
当たり前だ、地元の交通網くらいさすがに把握できている。
とがめられることもなく脱出に成功してしまった事実にほんのかすかな寂寥感をいだきながらも、電車のドアが閉まるのを傍観するような間抜けな真似はしなかった。
どうせ、追いかけてなんて来ない。
申し訳程度に暖房であったまった車内。
埋まっている座席は数えるほどで、あらためて夜の田舎の過疎具合を実感する。
前に座っているおじいちゃんだって、通路を挟んだ先でうつらうつらしている女のひとだって、こちらに関心を向ける様子はない。
こんな更けた空のもとを出歩いていたって、呼び止められも保護もされない齢に気づけばなってしまっていた。
(かわいくて若い女の子だったりしたら、別の意味で呼び止められそうだけど)
どこかからお叱りが飛んで来そうないささか失礼にすぎることを考えているうちに、通う大学の最寄り駅を通過した。
ふと気になって、反対側のホームに停まっていた車両に視線を流す。
ぼうぜんとした顔。
(やべっ。見られた)
すぐさま飛んでくるテキストメッセージに、短く返した二文字。
『どこ行くんだ』
『家出』
すぐさま鳴り始めるコール音をボタンを長押しすることで黙らせ、若干ごわごわして硬さの目立つシートに背中全体をあずける。
この県内にある、最も都会の街に行くつもりだった。
帰って来られなくったって別にいい。
誰かがオレを求めていたって、いないとさみしいと喚いていたところで、もうそんなことはどうでもよかった。
どこか、遠くへ。
誰も自分を知らないどこかへ。
衝動。
カッとなった、の一言で十分、いや、十二分に説明が終わってしまうくらいの。
終点に着く。
新幹線に乗り換えると、さすがに座り心地もよくって、うとうとと眠たくなってしまう。
意識が身体とともに、ふかふかの布地に沈み込んでいく。
車内販売もなくなったのだったか。
空腹を忘れるくらいに、振動がまどろみのお供をしてくれる。
◇
『次は、東京。東京。終点です。お降りのお客様は――』
アナウンスに揺り起こされ、ぼんやりした目をこする。
数秒経って、ようやく危機感が仕事を始めた。
「の、乗り過ごしちゃった……!」
あわてて時刻表を調べようとし、思いとどまる。
ここで電源を入れたら、なんとなく負けな気がした。
回らない脳みそをしばらくスローなりに動かしたのち、意地を張ることに決める。
駅員さんから困った顔と手慣れた対処を受け取り改札を出ると、むせ返りそうなほどの人いきれと雑多な足音の群れ。
右も左もわからない、という言葉の意味を嫌と言うほど実感しつつ、とりあえずひとの少ないほうに歩を進める。
そうでもしないと圧倒的な物量に押し流されてしまいそうだったからだ。
「はあ、――はあ」
とにかく空気が薄い。
走ってもないのに乱れた息を整える。
あたりを見渡す。
見るも無残に割れたガラス。
朽ち果てかけたコンクリートの外壁。
(すっげ……絵に描いたような廃ビルだわ)
思わずしげしげと眺めてしまう。
周囲にひとはまったくいない。
近くの苔の生えた石に腰を下ろす。
ちょっと足と肺を休めるには、なかなかいい空間だ。
ふう、と息をつき、喧騒から遊離した澄んだ空気に身をゆだねる。
しばらくぼうっとする。
「……ネズミでもいるのかな」
かり、かり、かり。
来た時には気づかなかったが、いつのまにか、ちいさな音が断続的に聞こえるようになっていた。
耳を澄まさないと気づかないレベルの、下手なささやき声より隠れたノイズ。
方向的には、このビルの中で発生しているようだった。
立ち上がり、何気なく覗き込んでみる。
こんな大都市に、ネズミなんているのだろうか?
そんな好奇心がオレを動かした――なんてのは当然、嘘だ。
首を、しずかに横に振る。
環境音にしてはリズムが一定すぎる。
時折あいだに挟まる、明らかなひとの声。
「うまいな。やはり格別だ」
一歩一歩進むごとにクリアになってくる言葉に、足がすくむこともない。
オレは、もうどうでもよかった。
たとえ深夜にこんな廃墟で何をしている狂人だろうと、せっかく来たんだしとりあえず話しかけてみようだなんて向こう見ずなことを考えちゃうくらいには。
(知ったもんか。もう、なにもかも)
窓の枠を乗り越えると、ぎょっとしたような誰何の声。
「……誰だ」
低い低いバリトン。
ごろごろと雑音の混じるラジオのように、けれど不思議と耳心地の好い。
「おじさん。ここ、あんたの根城ですか?」
やけっぱちのにこやかさで尋ねる。
立ち上がる人影は想定していたのよりもはるかに大きい。
窓から差し込む月明かりで逆光になっているせいか、ひとの理を超えた異形のようにすら映る姿。
「ああ? なんだ、ガキか」
「ガキ?」
「俺にとっちゃあお前なんざガキだよ。馬鹿が」
ため息をつく。
「……え?」
その口元から落ちて一瞬だけ輝く、透明な欠片。
「せっかく穴場を見つけたってのに。バイキングが台無しじゃねえか」
男が座っていた地面を、悪い視界なりになんとか確認する。
いちめんに散らばっているのは、とてもじゃないが食べ物とは言い難いものだった。
「めったに食べれねえんだぞ、こんないっぱいよお。最近スクラップになったばっかだから劣化もなくて、それでいて食べやすく割れてんだ。まったく、邪魔しやがって」
「が、……ガラスを、食べてる?」
「見られちまったからには仕方がねえ。お前が悪いんだぞ、クソガキ」
ぬうっと伸びてくる両手。
反射的に目をつむる。
「……」
「……」
てっきり口封じでもされるのかと思ったが、どうも向こうさんには何もする気がないらしかった。
強いていえば、子供にするみたいに頬をむにぃ〜っと伸ばされたくらいだ。
「ちったぁビビれよ。見知らぬ場所に素性も知れぬおっさんと二人だぞ? おまけにガラスなんぞ食ってる異常者だぞ? なんかヤベえとか思わないのか、お前」
舌打ちしながら右のほっぺを撫でるようにして離す。
「痛っ……」
「あ?」
ガラスの細かい欠片が肌に傷を作る感触。
「どした――って、ああなるほどな」
相手が自分の手を見つめ、納得したふうな声を上げた。
「食べカスがついてたのか。怪我させちまった……ちくしょう、これじゃあこっちが悪いことになっちまうじゃねえか」
どうしようかな、と頭をバリバリ掻く。
「俺がやっちまった以上、なんかテキトウに手当てでもしてやりたいところだが。部屋に連れ込むってのもなあ、なんか――」
「いいですよ」
「はぁ?」
ぎょっとした様子でこちらに、まじまじと視線をよこす。
「お前、警戒心とかねえのか? 人間にどころか生き物に最低限必要な機能だろ、いとも簡単に欠落させてんじゃねえよ」
「いいんです。もう」
きっぱりと言い切る。
「オレ、死ぬつもりでここに来たんです。だからもう、生きるための機能はいらないんです」
「……」
沈黙。
さすがに今の口上はサムかっただろうか、などと考えているうちに、唸るような一言。
「わかった」
手を差し出す。
「ついてこい。そんな無鉄砲でこんなとこに飛び込んできてんだ、俺の知らねえ別の場所で地面に転がってようもんなら寝覚めが悪い」
ぶっきらぼうな態度。
最初よりもこころなしか、人智を外れたモノと対峙しているような感覚は薄まっていた。
――むしろ。
「あ、ありがとうございます……?」
「なんで疑問形なんだよ。ちゃんと感謝しろやボケガキ」
ガキをつけた罵倒語のレパートリーがいやに豊富だな、このおじさん。
外に出ると、月があかあかと輝いていた。
なんとはなしに会話をしながら歩く。
「おじさんって、モテないんですか?」
ふと思ったことをそのまま質問としてぶつけると、思いきり怪訝な顔をされた。
「どういう意味だ? 隠遁生活送ってんだからそんな機会なんざあるわけねえだろ」
「いや……」
口ごもる。
あんなところにいたわりには、なんというかその……どこかのメディアで見かけてもおかしくないくらいの渋いルックス。
ヒゲは明らかに整えられてなどいないはずなのに、無精さを表現するものとはニュアンスが異なるように見える。
肩くらいまで伸ばしたうねるソバージュが、稜線を保ちつつ夜の闇に溶け込んでいる。
「いいだろ、この髪。このせいで多少見られることはあるが、同時に声をかけられることもねえんだよな。ほら、長髪のオジキってちょっとな、あれな、多分ヤバいイメージあんだろな」
「いや、高嶺の花的な感じだと……」
「お世辞はいらんよ。しゃらくせえ」
ひらひらと両手を振り、クソガキひょっとして、そっちもイケるクチなのか、と下品なハンドサインをしてくる。
「うわ、出た。おじさんならではのノンデリ」
「なんだノンデリって? 流行りの言葉か?」
「まあそうですね」
「どっちのことだ」
「両方です。言葉の意味と、あと、……そっちの意味」
「ふーん。俺もそうだわ」
こともなげに言ってのけ、買い出しに寄るぞ、と言って遠くの看板を指差す。
「あっこのスーパーは安いんだよな。いやー久しぶりに入るな」
「なんか買うんですか?」
「お前の食事に決まってんだろがバカタレ」
一人用の鍋の素と材料をいくつかカゴに放り込み、支払いを済ませる。
鮮魚コーナーにいたときエビに対し舌打ちしていたので、キライなのかなと勝手に推測して話しかける。
「な、鍋ですか……? というかあの、アレルギーとかあるなら、無理に……」
「は? 何の話だよ。俺は健康優良おっさんだからそんなもんねえ、お門違いな勘違いしてんじゃねえぞ」
そっけなく韻を踏んで吐き捨て、退店する。
アパートの一室は空気がこもっていて、なんというかいかにもひとり暮らしの男が生活している感があった。
最近たまに耳にするミニマリストというやつなのか、家具らしき家具がろくに見当たらない。
部屋の隅に敷かれたせんべい布団は、この時期にしてはちょっと寒そうだ。
「使える鍋があったかな。もう、ずいぶんヒトらしいものを食ってねえから」
ごそごそとキッチンに消えるうしろすがた。
「前は、普通のものを食べてたんですね」
「ああそうだよ。後天的なもんだからな、俺のは」
なにか引っかかる言い方だった。
「キャトルミューティレーションってやつだ。なんにも記憶なんざねえのに、あれから俺は逸脱してしまった」
ナレーションにも似た独り言。
続きを待ったが、それ以上語る気はどうやらなさそうだった。
「ああ、あったあった。多少汚れちゃあいるがまだイケるだろ」
じゃぶじゃぶと水の流れる音が聞こえる。
具材とスープタイプの鍋の素を雑に放り込んだあと、小さな卓のそばに座ったオレの前に丁重な手つきで置いてくれた。
「すごい。土鍋ですか」
「これしかなかったんだ。もともと調理器具には無駄にこだわる性質だったからな、ろくに凝ったメニューも作れやしないのに」
ぐつぐつと煮立つ醤油ベースの汁の中に、赤く色の変わったエビを見つける。
「わ、おいしそう……」
「だろ?」
シニカルに笑う。
「たとえ割引になってたとしても、めったにあのコーナーには行かねえんだぞ。せいぜいありがたがって食えや」
「海鮮キライなんですか?」
「なんでそんな信じられねえものを見るような顔してんだ? その顔は最初に会ったときしとくべきだったろうがよ」
舌打ちが再び。
どうやら彼のクセらしかった。
「そばを通るとき、目がそれこそ釘付けになってたからよ。どうやら読みは当たってたみてえだな」
取り皿を渡されたので、お玉ですくって箸を進めていく。
「おいしい」
「まあな。素使ってんだから、逆に失敗するほうが大変だわ」
いつのまにか手に携えていた缶ビールを開けてからからと笑う。
「うまいか? 全部食えよ、俺が作ってやったんだから。残したら許さんぞ特にエビ!」
脈絡のない爆笑を見るにどうも笑い上戸らしい。
そしてオレも同じだ。
「はい! たとえ胃がはち切れても完食します!」
「おーう話分かるじゃねえか! その意気だぜ!」
塩からいスープがよくしみる。
明日以降のことは、とりあえず考えないことにした。
これからどうするかなんてトピックは、きっと今の頭には重すぎるから。
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