第五章 八月 第四話 重ならない、二つの光

 綾子と水咲は三堂の車の中にいた。


 繁華街を走る車の暗い車内から見える景色は、目が眩むほどに眩しかった。


「何があったの?」

 パーティ会場から連れ出してくれた綾子は、車に乗り込むとすぐ尋ねてきた。


 水咲は答えなかった。言葉が出ないのではなく、綾子にだけは、話したくなかった。

「ダンマリか」

 ため息まじりに綾子が窓の外へ視線を向ける。


 都会の夜景が車窓に流れて、その光が綾子の横顔をふわりと照らした。

 とても綺麗だった。


 男から言われた言葉が、頭の奥でずっと響いていた。

 ドス黒い感情が頭をもたげる。

 疑い、怒り、あるいは――嫉妬。


「崇征は、あなたが好きなんです」


 絞り出すように告げると、綾子が心底驚いた顔で振り返った。


「誰がそんなこと言ったの?」

 水咲は答えず、自分の膝に視線を落とす。

 綾子はその様子で、察したようだった。

「あのナンパ野郎から何を聞いたか知らないけど、それはないよ。絶対に」

 静かに否定する声に、水咲の中で何かがざらりと逆撫でされた。感情が突き上げる。


「でも……崇征は、まだ傷ついてる」

 掠れた声で言った。

「知ってる」

 綾子は、即答した。

「でも、それはまだ私を好きだからじゃない」

 静かに、確信をもって重ねた言葉。

 まるで崇征の心の地図を、誰よりも正確に読んでいるようだった。


「なんで、そう言い切れるんですか!?」

 胸に溜まったものが堰を切って、怒鳴るように綾子にぶつけた。


 けれど綾子は、ただ優しく、まっすぐに見つめ返してきた。その目は、水咲のどこにも敵意を向けていなかった。


「心の傷は、人がくれる優しさでしか癒せないのに――崇征はそれを、ずっと受け入れようとしなかったからよ」


 水咲は言葉を失った。胸の奥に、重たい石を投げ込まれたような衝撃があった。


「崇征は、私と別れてからも、何人か彼女はいたよ。でも、誰にも本気になろうとはしなかった。モテるし、表面的には穏やかで魅力もある。でも――本当の意味で、誰のことも信じていなかった。優しさの仮面の下で、全て拒絶してた」


 その言葉が、まるで答え合わせのように、水咲の心に落ちた。

 仮面。あの優しさの裏側。本当に触れたいと願うほどに、遠く感じる温度。


「三年前に何があったか、聞きたい?」

 いつもの挑発的な調子ではなく、人生の先輩として包み込むような雰囲気で、綾子が問いかけてきた。


 水咲はなぜか心臓が掴まれたように、胸と息が詰まって言葉が出なかった。


「崇征は優しいから、そういうこと、言わないよね」


 綾子が大切にされているという事実が、また水咲を深いところに引き摺り込もうとする。それを救いあげたのは、何故か綾子だった。


「この『優しい』の意味、わかる?」


 全く意味がわからなくて、水咲の心はドクンと跳ね上がる。


「誰にでも優しいってことは、誰のことも大切にできてないってことだよ」


 やはり綾子が一番崇征を理解してる。その言葉でそれを突きつけられた。

 水咲が感じていた崇征の歪な隙のなさ、仮面の笑顔、それがこの言葉に集約されている。

 崇征は、他人どころか、自分すら大切にできていない人なんだ。


「話してあげる、フェアじゃないから」


 綾子が話してくれたことは、パーティで男が話していたことと概ね変わりはなかった。


 崇征と婚約していた十七歳のとき、綾子は留学先のイギリスで知り合った大学生と恋をした。

 綾子はその恋に全て賭けたが、相手は綾子が帰国する時に「所詮タイムリミットのある恋だったんだ」と、別れを切り出した。

 帰国後、綾子が黙っていれば、それは誰も知らないことだった。


「でも――」

 綾子は欺けなかった。自分を含め、誰のことも。


「崇征のことは本当に好きだった。誰も傷つけたくなかった。でも私は本当の恋を知ってしまったから……」

 綾子は見たこともない表情を見せた。いつも通り美しいけど、少女のように瑞々しくもあった。


「崇征への好きは、それとは違うと分かっている。それを隠すことは、一番酷い裏切りでしょう?」


 水咲は綾子を前に、いつも抱いているモヤモヤと形にならない感情が腑に落ちた。

 水咲が綾子に抱いていた畏れは、綾子が持つ自己への正直さ、つまり水咲も崇征も持っていないものだった。


「あなたも、崇征と本心で向き合ってみたら?」


 ふいに向けられた言葉に、水咲は息を呑んだ。

「なんで、私が……」

 言いかけた言葉は、綾子の静かな微笑みに遮られた。


「だって、自分の心を閉じたままで、相手に開いてもらおうなんて――それは、ちょっと虫が良すぎると思わない?」


 その声は、優しく、けれど容赦なかった。

 まるで、自分のいちばん痛い場所に、迷いなく刃を差し込まれたようだった。

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