第四章 七月 第三話 揺らぐ、境界

 その日を境に、綾子は毎日のように三堂家に現われた。

 まるで家族の一員のように一日中三堂家に入り浸って、使用人とも親しげだった。水咲は綾子の全てを黙殺しているつもりなのに、綾子の立ち振る舞いがやたらと視界に入ってくる。


 住む世界が違う人。

 纏う色彩すら違う人。

 崇征と同じく、決して交わることのない人。


 かつては毛ほども興味がなく、無関心な世界の住人なのに、何故無視できないのか。水咲は全てに対して無性に苛立った。


 その日も、綾子は三堂家に来た。さらに帰り際、水咲のいる離れにまで現われた。


 水咲は平坦な声を紡ごうとしたが、言葉は勝手に棘を帯びた。その自分に苛立ちながら、水咲は言った。

「暇なんですか?」

 視線は目の前の、つまらない色合いをしたキャンバスに向けたまま。

「うん、暇だね」

 何が楽しいのだろう、弾んだ声で綾子は答えた。


「崇征は居ないですよ」

 綾子を見ないようにして、なるべく機械的に水咲は言った。

「知ってる。今日はあなたに用があって来たのよ」

 対照的に明るい綾子の声に、水咲は綾子に気付かれないように眉をひそめた。


「私のこと知ってる?」

 綾子はそんな事もお構いなしに続けた。

「……まぁ」

当惑しつつ、水咲は曖昧に答える。


「幼馴染みなの、そして——」


 綾子は含みのある言い方をして言葉を切った。

 そして水咲にとって不快な間を置いて、満を持したように続けた。


「婚約者だったの」


 綾子は水咲の反応を窺うように言葉を切って水咲を見た。水咲はもう既に知っていたので、黙って聞き流した。


「親同士が決めたことよ」


 『安心してよ』そんな言葉が聞こえてきそうな言い方だった。水咲は綾子の余裕が勘に触った。


「石峰は三堂の名前が欲しい、三堂は石峰の経済力が欲しい」

 綾子の言葉に被せて水咲の口から言葉が漏れた。


「政略結婚」


 ——しまった、つられた。


 相手にしないつもりだったのに、水咲は反応してしまった。そんな水咲に綾子は待ってましたとばかりに身を乗り出して言った。


「私たちもそれでよかったのよ。お互い、本当に愛していたから」


 そして、水咲を試すように見て、

「三年前まではね」

と続けた。


 それを聞いた水咲はなぜか苛立った。自分には決して与えられなかった種類の、完成された過去の愛。


「崇征って素敵でしょ?」


 突然、何の脈絡もない方向へ話が変わった。

 綾子には、水咲は口が裂けても三年前に何があったかなんて聞かないだろうと、わかっているようだった。


「今はすっかりやつれて顔色も悪いけど、前はスポーツも何でも出来て、頭も良いいし、気が利いて優しいし、もてたのよ」

 得意気に綾子は言った。

 それを聞いている水咲は苛立ちが募る。


 だから何なんだというのだろう。

 もうあなたのものでもないのに。


 ——それに——


 崇征の優しさは、仮面だ。

 あの優しい笑顔で崇征は他人を拒絶する。


 その原因は綾子だ。

 水咲はそう感じ取っていた。


「なぜここに居るの?」

 また脈絡もなく、綾子は新たな質問を水咲にぶつけた。水咲はそんな綾子を黙殺し続けた。


 水咲の態度は全く変わっていないはずなのに、

「知らないんだ」

と、綾子は本質を突いてきた。


 水咲は黙るしかなかった。

 『ここに居る理由』そんなもの、水咲の方が知りたいのだ。


「あなた、速水水咲っていうんだって?」

 綾子の質問は一貫性がなく、支離滅裂だ。水咲は半ばうんざりしながら聞き流そうとしていた。

「私は崇征より三堂家との付き合いが長いからね、崇征の知らないことも知ってるよ」

 『何か知ってるんですか?』

 喉まで出掛かった言葉を、水咲は飲み込んだ。


 そんなもの、興味ない。

 自分自身に言い聞かせた。仮に、綾子が何か知っていたとしても、水咲はそれを何故か綾子の口からは聞きたくなかった。


 綾子の言葉、行動、全てが水咲の心を掻き乱している。水咲は何もかもを消してしまいたかった。

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