第三章 六月 第六話 溺れたまま、息をする

 今までの水咲は死人になりきってやり過ごすことが唯一、自分を保っていられるすべだった。

 誰にも惑わされぬように、誰の影響も受けぬように。何も見ない、何も受け入れない。


 表面だけの薄っぺらな関係の中で、気付けば水咲はとっくの昔に窒息死していた。人間界の海を溺死体で漂ってさえいれば、惑わされるものなんてどこにもないと、悟ったのもその頃。

 でもまさか、溺死体を海から引き上げようとする人間が現われるなんて、思ってもみなかった。


 水咲は、死人ではいられない自分を感じていた。それは崇征が水咲と同じく、その心の中に死んでしまった部分を持っているからに他ならない。


 ——僕には未来がないが君にはある。

 ——君は望むものをその手にすることができる。


 崇征は言った。半分は正しい。水咲には崇征にないものがある。

 それは時間だ。

 水咲には崇征のようなタイムリミットはない。それを可能性と呼ぶ人もいるだろう。しかし、それが一体何だというのだろう。


 水咲が今まで求めてきたものは「傷付かない世界」だ。それは今のままで十分手に入っている。


 光が見えると闇が怖くなる。だから、光など知らなくていい。



 初夏の軽やかな日差しが、窓際の真っ白なキャンバスに反射して眩しかった。


 庭に流れる小川の澄んだ香りもする。

 水咲の体が何かを求め始めた。

 水咲は本能で、それが水咲の生命の支えであることを知っている。それを求めることは、まるで空っぽの胃が食べ物を求めるのに似た欲求だった。


 水咲は屋敷を出た。

 三堂の屋敷からアトリエまでの距離は歩くには少し遠かったが、水咲はもう何も感じない。ただひたすらに進んだ。


 桜の木はいつも同じ場所で水咲を待っていた。


 緑の葉を天高く広げ、涼やかな風に葉を揺らしては、葉擦れの音が子守歌のように水咲の耳に響く。


 全てを受け止めるように。


 水咲は桜の木に近付き、そっとその幹に触れてみる。


 その瞬間全てが消え去り、その感触だけが水咲の中でリアルになる。

 以前と寸分違わぬその感触に水咲はふっと心が軽くなるのを感じた。冷たく堅い幹の内側で、木が脈打っているのを感じる。その音を、桜の木の鼓動を五感いっぱいで感じていた。

 その鼓動は水咲の指先から伝わって、水咲の心と共鳴している。表面は堅く冷たく静かな桜の木。年老いて死んだように見えても、内側はこんなにも強い生命を持って生きている桜の木。


 水咲は先週切った傷を思い出した。温かい血が流れた。

 あの時水咲は気付いた。

 幼いあの日、水明がなぜあんなに怒ったのか。


 ——怪我をさせたくなかったんだ。


 今更わかっても、過去は取り戻せない。


 傷も今はもう細胞が塞ぎ、跡は消えそうになっている。水咲の体もこの桜の木と同じく強い生命力で生きようと願っている。


 不意に、水咲は背後で空気が動くのを感じた。

 振り返ると、ひょろりと背の高い影が立っていた。逆光で顔は見えないが、それは紛れも無く崇征の影だった。


 生きるという「諦めきれない執着」を、水咲に託そうとしている。


 水咲はもう一度桜の木を見上げ、その生い茂った緑を心に焼き付けた。

 この木も諦めることを知らず、いつも水咲の心に寄り添ってくれる。


 そして、まっすぐ崇征の前に進むと、初めて見た時とは違う、迷いに揺れる目が見えた。

 その揺らぎが水咲の気持ちを映す鏡のように共振する。水咲は、ひとつ息を吸い、自分の意思を確認するように、凛とした声で言った。


「大丈夫、どこへも行かない」


 崇征の返事も待たず、そのまま離れた場所に止めてあった車に、水咲は自ら乗り込んだ。


 崇征は慌ててその隣に滑り込み、車はすぐに屋敷に向かって走りだした。

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