第一章 四月 第三話 声なき少女
崇征は作業の手があいたので、制作室に戻り水咲を見た。
——何を考えているのだろうか。
崇征はまくり上げたシャツの袖を元に戻しながら、視線は水咲に釘付けになっていた。
たった一人の肉親の遺体を前に、乾いた視線を送る水咲。
表情の無い顔。
三堂から手伝いに呼んだ者たちも、水咲の様子を異様に感じ、制作室に入りたがらない。
崇征も水咲に掛ける言葉が見つからない。
迷っていると、再び呼ばれる。
「ああ、今行く」
崇征は呼ばれた方へ声を掛けて、一瞬だけ水咲を振り返り、部屋を出た。
その間、水咲は全く動かなかった。
手伝いの者たちが三堂家へ帰っても、崇征だけはアトリエに残った。
水咲を一人で残して行く事は出来なかったのだ。
崇征は水咲の居る制作室を覗く。
その瞬間、一瞬だけ背筋が冷たくなった。
水咲はさっきと寸分変わらない様子でそこに居たのだ。乾いた瞳のままで。
崇征は唾を飲み込むと、今度こそ水咲に声を掛けた。
「水咲さん」
崇征の声に水咲の反応はない。
「もう、遅いから休んだら」
崇征は諦めず、なおも声を掛けた。
しかし、やはり水咲の返事はない。
崇征はなすすべなく、その無表情な横顔を見た。
こんな風に無視されるのは一体何年振りだろうか。
三堂の後継者に決まってから、誰もが進んで崇征の話に耳を傾けるようになり、こんな扱いを受ける事もなくなった。
崇征の脳裏に三堂家の広い庭で泣いている幼い自分の姿が蘇った。
崇征は慌ててそれを振り払い、改めて水咲を見た。
すれ違い続けた父子の最期の別れ。
死んでからようやく娘と向き合えた父親。
水咲は今何を考えているのだろう。
崇征はそれを黙って見守ることにした。
——変な感じだな
崇征はソファに体を預けて、天井を見ながら思った。
水咲にとって崇征は家具と同列かと思うと、自分の存在があまりに滑稽に思えた。
崇征は疲れていたので、しばらく横になっていると、すぐに眠気が襲ってくる。
ぼんやりまどろんでいると、静寂を破るように、突然、聞き覚えの無い声が聞こえた。
「ほっといでくれませんか」
崇征はその言葉が、水咲のものだと直ぐには判らなかった。
あまりに深い沈黙だったせいか、抑揚のない水咲の声は、耳慣れない機械音のように聞こえた。
しかし、今この部屋に居るのは自分と水咲だけ、今の声は確かに水咲のものなのだ。
初めて聞いた水咲の声は、あまり高くない凛としたよく通る声だった。抑揚がちゃんとあればきれいな声と言えるだろう。
改めて崇征が天井から水咲に視線を移すと、丁度、水咲も振り返ったところだった。
きちんと正座をして真直ぐに崇征を見据える。
崇征はその姿をアンドロイドのようだと思った。
ただ、目だけが強い意志のある光を放っていて、崇征にはそれが、底知れぬ哀しさの裏返しに見えた。
「選挙の人気取りでしょ」
機械のような単調さで水咲は崇征を問い詰めた。
水咲も三堂の名前は知っていたのか。
崇征の父、三堂登喜夫は地元で有名な市議会議員だ。
崇征はそれをきっぱりと否定した。
「速水さんとは、一年くらい前に知り合ったんだ。君のことも、聞いているよ」
その言葉を聞いて、水咲はくるりと背を向けた。
納得したというような態度ではない。
崇征との間に壁を作ったとでも言うべきだろうか。
——これは、かなり手強いな。
崇征はそう思いながら水咲に話し掛けた。
「どんな話をしたとか、もっと知りたくない?」
水咲は背を向けたまま、たった一言だけ答えた。
「興味、ないです」
その言葉に崇征は絶句した。
しかし、なんとか気を取り直して水咲に問い掛ける。
「僕の事とか訊かないの?」
水咲の反応は悲しくなるほど変わらない。
「……興味、ないです」
一瞬、戸惑うような間を置いて言葉が出たが、崇征にはそれを感じ取ることはできなかった。
抑揚もない、背中越しの声だけでは水咲の気持ちは推し量れなかった。
拒絶を露わにするその背中だけが崇征の視界に入る。
その背中を見ていると、なぜか崇征は胸に痛みを感じた。
この感覚は、いつかの——もう塞いだと思っていたはずの傷口が裂け、奥底に押し込めていた膿がじわじわと滲み出すようだった。
崇征の頭に、ある一つの「背中」のイメージがフラッシュバックする。
この痛みから逃れなければ。
そして、崇征は再び仮面を装着するかのように、水咲を残して制作室を後にした。
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