第3章
第1話
灰色の空から落ちてくる雨粒が、石畳を叩いている。あの戦いから五日が経っていた。あれほど恐ろしげだった魔王種は二人によってあっさりと討伐され、部隊は駐屯地へと戻っていた。
功労者であるリィナとレオンは、帝都へと向かった。魔王種討伐の報告と——リィナが勝手に出撃した件の釈明のためだ。残された俺たちは、フェルミナ領の復興支援任務を命じられていた。
だが、その前にやらなければならないことがあった。
「……レン」
医務室の扉を開けると、消毒液の匂いが鼻を突いた。白い布に覆われた寝台がいくつも並び、その一つにレンが横たわっていた。顔色は青白く、目は虚ろに天井を見つめている。左腕があった場所には何もなく、肩を起点にして包帯が幾重にも巻かれていた。
「……よう、ハルト」
レンが俺に気づいて、力なく笑った。その笑顔があまりにも痛々しくて、胸が締め付けられた。
「……ごめん」
気づけば、その言葉が口をついて出ていた。
「なんで謝るんだよ」
レンが首を横に振る。
「生きてて、ラッキーだったよ」
「でも、腕が」
「まあ、利き腕が残ったからさ」
レンは残った右腕を持ち上げて、じっと見つめた。その声には感情がなかった。悲しみも、怒りも、何も。ただ事実を述べているだけのような、空虚な響き。
「……」
俺は何も言えなかった。何を言っても、薄っぺらい慰めにしかならない気がした。
「いいんだ」
レンが目を閉じた。「生きてりゃ、なんとかなるだろ」
その言葉が本心なのか、それとも自分に言い聞かせているだけなのか。俺にはわからなかった。
医務室を出ると、エドワードが廊下で待っていた。
「どうだった」
「……塞ぎ込んでます」
「そうか」
エドワードは腕を組み、難しい顔で考え込んだ。
「無理もない。片腕では」
その先は言わなかった。言わなくても、わかっていた。
「でもな、ハルト」
エドワードが俺の肩に手を置いた。
「お前のおかげで、多くの命が救われた。レンもその一人だ。胸を張れ」
「……助けたのはリィナさんですよ。俺じゃない」
胸を張れと言われても、そんな気持ちにはなれなかった。俺がもっと強ければ、レンは腕を失わずに済んだかもしれない。俺がもっと早く動いていれば。俺が。
「自分を責めるな」
エドワードが俺の考えを見透かしたように言った。
「あの状況で、お前はできることをしていただろう。お前がいなければリィナ殿が来る前にもっと大勢やられていたはずだ」
「……はい、ありがとうございます」
口ではそう言ったが、心は晴れなかった。
午後、エリナに呼ばれて医務室を再び訪れた。彼女は治療中のミリアに寄り添いながら、レンの状態を確認していた。医務室に入った俺に気づいたエリナは手を挙げて呼ぶと、レンの周囲に置かれた器具を調節しながら言った。
「引き続き、魔力供給をお願いできますか? 回復力が高まるかもしれませんので」
「はい」
俺はレンの傍に座り、残された右腕に手を当てた。意識を集中し、魔力を流し込んでいく。以前と同じように——だが、以前とは違う感覚があった。魔力がすんなりと流れて行かないような、どこかが詰まっているような、そんな感覚。
「……大丈夫ですか」
隣でミリアが心配そうに覗き込んできた。
「うん、大丈夫」
「無理しないでくださいね。ハルトが倒れたら、元も子もないですから」
その言葉に、少しだけ心が軽くなった。小さく頷いてそのまま魔力供給を続けた。
翌日、隊長と重傷者を除いた三十名ほどで被災地へ向けて出発した。
馬車に揺られながら、窓の外を流れる景色を眺める。焼け落ちた村、倒壊した家屋、黒く焦げた畑。魔王種の爪痕は、あまりにも深く刻まれていた。魔王種が生まれたのも、討伐されたのもずっとずっと遠くの出来事であるはずなのに、ここまで広範囲に被害が発生していることに驚きを隠せなかった。
「……ひどいな」
隣に座っていたエドワードが、低い声で呟いた。
「うん」
それ以外に、言葉が出なかった。
馬車は揺れ続ける。単調なリズムが、疲れた体に染み込んでいく。いつの間にか、隣で規則正しい寝息が聞こえ始めた。
ミリアだ。ゆっくりと身体が傾き、その頭が俺の肩に乗ってくる。
「……っ」
心臓が跳ねた。起こすべきだろうか。でも彼女はここ数日、レンや兵士たちの治療に付きっきりで、ほとんど眠れていなかったはずだ。どうしよう。
俺は息を殺して、身じろぎしないように努めた。肩に感じる温もりと、微かな花のような香り。ドキドキするのに、同時に安らいでしまいそうな不思議な香りを鼻腔に入れないように、俺はずっと反対側を向いて小さく息をした。にやにやしながらこちらを見ているエドワードを睨みつけながら。
どれくらい時間が経っただろう。ミリアが小さく身じろぎして、ゆっくりと目を開けた。
「……ん」
寝ぼけ眼で周囲を見回し——そして、自分が俺の肩で眠っていたことに気がついた。
「っ!?」
弾かれたように身体を起こす。その顔が、みるみる真っ赤に染まっていく。
「す、すみません! 私、いつの間に」
「い、いや、ぜんぜん大丈夫」
俺も顔が熱くなるのを感じた。視線を逸らしながら、どうにか平静を装った。
「疲れてたんだろ。あんだけ頑張ってたんだから当然だよ」
「でも、その、迷惑を」
「迷惑じゃない」
言ってから、その言葉が思った以上に強かったことに気づいた。馬車の中にいる全員が、こちらを見つめていた。ミリアも目を丸くして俺を見ている。
「……迷惑じゃないから。ほんとに」
馬車の反対側から、特に強い視線を感じた。見ると、ガルドが腕を組んで俺を睨んでいた。気の強そうな上がり眉が、さらにつり上がっていた。言われずとも、妹に何をした、というガルドの思いが伝わってくる。
「まあまあ」
隣でエドワードが苦笑しながら、ガルドをなだめていた。
「妹とあんなくっついて……! 近づくなと言ったのに」
「馬車の中が狭いんだから仕方ないだろう、あんまり構いすぎると嫌われるぞ」
「……! そんな……! ミ、ミリア、そんなことないよな! な!?」
そんなやり取りを聞きながら、俺はそっと窓の外に視線を向けた。心臓がまだ早く打っている。ミリアの温もりが、まだ肩に残っているような気がした。
——何を考えてるんだ、俺は。
今はそんなことを考えている場合じゃない。レンのことも、復興任務のことも、そして、自分自身のことも。やらなければならないことは山積みだ。恋なんてしてる場合じゃない。
でも。
ちらりと横を見ると、ミリアはまだ顔を赤くしたままガルドを宥めていた。
その横顔を見るだけで、胸の奥がちくりと小さく疼いた。
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