第6話
六日目の朝も、霧が深かった。白いもやが森全体を包み込み、視界は数メートル先までしか利かなかった。眺望の良さそうな拓けた場所に出ても、見渡す限り真っ白で不思議な光景だった。
部隊は霧の中を注意深く進んでいた。少しでも離れたらすぐに見失ってしまうので、誰も無駄話などはせず気を張っていた。足音などの些細な音は重苦しい霧に吸い込まれてしまい、不自然なほど静かな行軍だった。
「魔獣が出やすい天候なんだ」
エドワードが小声で教えてくれた。
「霧に紛れて襲ってくることがある」
俺は頷いて、周囲に気を配りながら歩を進めた。
最初に聞こえたのは、兵士の甲高い叫び声だった。続いて金属音。白い靄の中から漏れ聞こえてくる低い唸り声。
「魔獣だ! 陣形を組め!」
レオンの指示で、兵士たちが慌ただしく動き回る。だが霧のせいで視界が悪く、うまく連携が取れていないようだった。兵士たちの混乱を嘲笑うかのように、霧の向こうで複数の気配が蠢いている。
「狼型だ! 数は……十匹以上!」
誰かが叫んだ瞬間、霧の中から巨大な影がいくつも飛び出してきた。エドワードに引っぱられ尻餅をついた頭の上をぶ厚い鉤爪が通り過ぎていく。驚いて横を見ると生暖かい獣の息が霧の中から吹いてきた。エドワードが自分の真横にいるであろう魔獣に向かって、勢いよく大槌を振り下ろす。体が浮かび上がりそうなほどの衝撃が周囲に広がった。年季の入った大きな鎧が、霧の中へと消えていく。
「俺は戦闘に集中する! 誰か、そいつの面倒を見てやってくれ!」
牛並みに大きな影が縦横無尽に動き回り、すさまじい衝撃が何度も地面を震わせる。
「左翼、後退!」
「右から来るぞ!」
「後ろにもいる!」
「見えない! どこだ!」
兵士たちの声が交錯する。狼たちの巧みな戦術にすっかり翻弄されているようだ。
自分も戦いたかったが、手錠をしている身では何もできず、兵士たちに引きずられるまま円陣の中心らしき場所まで下がらされた。
霧の中での戦いは、普段とはまったく勝手が違うようだった。これまでに遭遇した魔獣は組織だった動きで素早く処理されていたのに、今回は一向に戦いが終わる気配がなかった。兵士たちの剣戟の音や怒号が延々と響き続けている。
「包囲されてる!」
「陣形を維持しろ!」
レオンの声が響くが、錯乱して叫んでいる若い兵士たちには聞こえていないようだった。兵士の甲高い叫び声が少しずつ遠ざかっていく。
その時、右側で激しい戦闘音が響いた。
「カイル! いったん下がれ!」
誰かが叫ぶ。霧の切れ間から、カイルが一匹の魔獣と対峙している様子が見えた。その脇からもう一匹の魔獣が迫っているのも。
「後ろだ! カイル、後ろ!」
兵士たちの声が響くが、カイルは前の狼との戦いに集中していて気づいていないようだった。 その瞬間、兵士たちが飛び出した。
「カイルを守れ!」
三人の兵士がカイルを援護するために突進する。霧の中で剣と牙がぶつかり合う音が激しく響いた。
「お前ら、俺一人で十分だ!」
俺にいつも向けているものとは違う、優しさの籠った怒鳴り声。
「馬鹿野郎、死ぬつもりか!」
「俺たちは仲間だろうが!」
「うるせえ、このまま仕留めるぞ!」
カイルを中心とした小隊が、狼の包囲を破ろうと奮戦していた。だが、狼の数は思った以上に多かった。
「新手だ! まだいるぞ!」
霧の奥から、さらに大きな影が二つ現れた。恐らく群れのリーダー格だろう。他の狼より一回りも二回りも大きく、その目は知性を感じさせた。
リーダー格の二体が同時に遠吠えを上げると、散らばっていた狼たちが一斉に動き出した。明らかに統制された動きだった。
「陣形を崩すな! 防御に専念! リーダーを始末するまで耐えろ!」
リーダー達と比べても遜色のない大きな影が、二つの影と衝突した。レオンだ。周囲の霧が赤色や黄色に染まるたび、凄まじい音と衝撃が大気を揺らした。呆然としていると、いつの間にか霧が薄くなっていた。戦いの余波だけで霧を吹き飛ばしているようだ。
「散らばるな! 集まれ!」
カイルが叫ぶが、狼たちの巧みな連携により兵士たちは分断され始めていた。中心にいるからこそわかるが、当初よりも各小隊の距離が離れている。孤立させて、各個撃破を狙っているようだった。
その時、左側で悲鳴が聞こえた。
「うああああ!」
エドワードの声だった。何かが擦るような音が響く。声の方向を見ると、足に噛みつかれたエドワードが部隊から遠ざかるように引きずられていた。
「エド! くそっ、邪魔するな!」
カイルが向かおうとするも別の狼に阻まれていた。勢いよく剣を振り回すが狼も素早く致命傷にはなっていなかった。
その間にも、エドワードは狼に引きずられて霧の奥へと消えていく。
「エドワードを助けろ!」
他の兵士たちもエドワードの方向に向かおうとするが、その都度狼たちに妨害されていた。まるで計算されたような連携だった。
カイルも他の兵士たちも涙を浮かべながら死に物狂いで、助けに行こうとしていた。
俺を見下し嘲笑っている時の彼らとは別人のようだった。引きずられている仲間を見る、あの必死な表情。それを見ながら俺は知らず知らずの内に薄笑いを浮かべていた。頭を踏みつけ腹を蹴りながら愉快そうにしていたカイルの顔が、今は悲しげに歪んでいる。滑稽で仕方なかった。声を出して嘲笑ってやりたかった。
俺をちゃんと仲間として扱ってくれたなら。人として扱ってくれたなら。
優しくしてくれたなら、今助けてやったのに。自業自得だ。人に与えた苦しみの分、お前たちも苦しめ。
俺が奪われた分だけ、いやそれ以上に奪われろ。
「くっそおおお、邪魔をするなああ!」
いい気味だ。ざまあみ
その時、霧が真っ赤に染まり、雷のような爆裂音が響き渡った。
レオンだ。彼の戦いは明らかに格が違った。こちらの戦闘は生物同士の戦闘という枠を逸脱していないが、向こうはその枠を軽々と超えて、兵器の撃ち合いでもしているかのようだった。
霧がまた少し晴れ、引きずられていったはずの男の手が見えた。木の根元に掴まり、これ以上は連れて行かれまいと必死に抵抗していた。
大きい手。太い指。俺の背中を支え、髪を洗ってくれた男の手だった。
エドワードの、手だった。
心臓をそのまま握られているのではないかと思うほどの痛みが胸を襲い、俺は思わずぎゅっと目を瞑った。まぶたの裏には気遣わしそうにこちらを見るエドワードがいた。懐からそっとサンドイッチを出し、美味しいと言われたら嬉しそうに笑う男がいた。
――優しさならとっくに、もらってるじゃないか。
ばっか野郎が。自分で自分を殴りつける。ここで見捨てたら、あいつと一緒だ。俺を落ち人として一括りにして、その憎しみをぶつけてくるあいつと変わらない。それだけは嫌だ。絶対に、嫌だった。
気付けば体が勝手に走り出していた。
手錠で腕は使えないが、足は自由だ。
足さえ自由なら、人はどこにだって行けるのだ。
兵士の肩や狼の背中、空気すらも踏み台にして恩人の元へ一直線に向かう。
「離せ!」
エドワードの肩に噛みつき森の奥へと引きずり込もうとしている狼の左目を、頭上から蹴り飛ばす。空中でそんなことをしたせいで背中から地面に落ちたが、体を丸めて頭を守ることだけは忘れなかった。
『脳震盪だけは避けなければならない』本物の戦士の言葉だ。頭だけは守るのだ。
頭を守ることが、エドワードと自分を守ることに繋がるのだ。
素早く起き上がり、唸っている狼を睨みつける。
「……坊主、何してる。いいから下がれ、その手じゃ戦えないだろう」
背後でエドワードが弱々しく呟いた。
「そうだね、だが断る!」
片目の狼と睨み合いをしながら「一度言ってみたかったんだよね」と誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
虚勢でも張らなければ気絶してしまいそうだったのだ。怪しく光る瞳、生臭い息、滴るよだれ、毛皮の上からでもわかるほど発達した筋肉。これだけの近距離で向き合えば嫌でもわかった。
絶対に勝てない。
これが、本物の魔獣。この世界の本物の戦士たちと鎬を削る本物のモンスターなのだ。
紛い物に勝ち目はない。現実と向き合ってしまえば、自分が戦士ではないことがすぐにわかった。この世界で一番になれるはずもない。レオンが呆れ果てたのも納得だ。
でも。それでも。
震える足を縛られたままの手で何度も殴る。動け。動け。動け。動け。倒す必要はない。時間を稼げればそれでいいのだ。後ろから兵士たちの叫び声が徐々に近づいてきている。怒りと憎しみしか感じたことのなかった彼らの声を、今だけは頼もしく感じた。彼らがここに来るまで持ちこたえれば俺の勝ち。お前の負けだ。
だから、動け。
動け。
動け!
眼前に現れた牙をすれすれで避ける。一瞬のことだったが、ぎょろりと睨みつけてくる紫の瞳の中に薄く笑っている僕の姿が確かに見えた。その後も繰り返される乱暴な攻撃を全て紙一重で避けていく。
手を縛られている上に相手は格上。まず間違いなく絶望する状況のはずなのに、どうしてだか俺は笑っていた。なぜだか助かる予感がしていたのだ。
ほら、きた。
「エドォォォォ!」
傷だらけで血だらけのカイルの剣が狼の脇腹を深く斬りつける。狼が苦しそうな鳴き声をあげて後ずさり、そこを狙っていた別の兵士が止めを刺した。
「おい大丈夫か!」
「ああ、なんとか……」
エドワードが小さく頷いた。だが傷は深く、真っ赤な血が今もなお流れ続けていた。カイルがじろりとこちらを見る。その目は複雑そうに歪められていた。瞳の奥で、感謝と憎悪が激しくぶつかりあっているのが見える。
「……何を企んでる」
「なにも。優しさを返しただけだよ」
そっけなく返事をして視線を逸らした。エドワードの傍へ駆け寄る。
「嘘を吐くな、お前らにそんな人の心があるわけ」
「カイル」
エドワードの弱弱しい声が割って入った。「他の者の援護を」
「だが、こいつに何をされるかわかったものじゃ……!」
「問題ない。頼む」
カイルは返事をしなかった。罪人の一挙手一投足を見逃すまいとでもするかのように、目を大きく見開きながらこちらを睨みつけていた。そんな目を見ても、不思議なほどに気持ちは落ち着いていた。この戦いで一皮剥けたのか、以前のように怯えたり傷ついたりすることはなかった。カイルを無視して、エドワードの大きな背中に両手を差し込む。剣を抜きかけたカイルの右手を、エドワードの震える手のひらがそっと抑えた。
「やめろ、起こそうとしているだけだ。安全な場所まで連れて行こうとしているだけ、そうだろう?」
俺はこくんと頷いた。エドワードの脇にもぐり込み、支えながら立ち上がらせようとする。だが大柄なエドワードは大型の電化製品ぐらい重く、自分だけでは支えきれなかった。それでも何とか立ち上がらせようと踏ん張っていると、次の瞬間、エドワードが嘘のように軽くなった。
顔を上げるとカイルがエドワードを抱き上げていた。
「遅いんだよ、これじゃ辿り着く前にエドが死んでしまうだろうが。お前は装備を回収してこい、わかったな」
お前ら、俺が戻るまでふんばれよ! と周囲の兵士に言い残し、カイルはエドワードを抱えたまま走り去った。自分も負傷しているはずなのに、自分よりも重い男を抱えて必死に走る後ろ姿は、今まで俺が思い込んでいたカイルという人物像を壊すほどの衝撃があった。
一歩踏み出すたびに血が流れるその背中を、大槌を引きずりながら俺は必死に追いかけた。
ようやくわかった。決して許すことはできないし認めたくはないけれど、カイルは良いやつなのだ、きっと。身近にいる人が大切で、大切で仕方なくて、自分のことなんて後回しにするぐらい大事にしていて、そんな人たちを奪っていった奴が憎いだけなのだ。
愛情の大きさの分だけ、強く強く憎んでいるだけなのだ。
大槌を握る手にぎゅっと力が籠る。先ほどよりも重さが増したように感じるそれを、歯を食いしばりながら引きずっていく。もうカイルの背中は見えなかった。
そんな中、戦闘はまだ続いていた。
「陣形を立て直せ! 霧が晴れるまで持ちこたえろ!」
レオンの指示で、兵士たちが徐々に集結し始めた。狼の遠吠えが何度も響くが、どちらとも致命傷を与えられず戦いは膠着状態になっているようだった。
「ミリア、ミリアー!」
慌ただしい声が飛び交う中で、カイルの声は一際大きく、遠くでもはっきりと聞こえた。
「ミリア! エドが怪我を!」
今にも泣きだしそうなカイルの声を目指して進んでいく。エドワード達の姿がぼんやりと見えた。
「こちらに!」
ミリアが手を振って場所を指示している。エドワードを地面に寝かせると、カイルはすぐに前線へと戻っていった。全身に力を入れてミリアとエドワードの元へと急ぐ。
「『癒しの光』」
暖かい光がエドワードの傷を包んだ。出血が止まり、傷口が徐々に塞がっていく。
「ありがとう、ミリア。それから……ハルト」
エドワードが弱々しく微笑んだ。この世界に来て初めて名前を呼ばれた気がした。なぜだか目頭が熱くなってとっさにそっぽを向いた。
「……当たり前のことをしただけだけだよ」
「当たり前なんかじゃない。俺たちはずっと、お前にひどいことをしていたんだ。見捨てられて当然の扱いを、お前に、ずっと」
「……それでも、エドワードさんは優しかったよ」
「本当に、すまなかった」
治療を続けながら、ミリアがこちらをちらりと見た。
「あなた、その状態でエドさんを助けてくれたんですか」
「……まあね」
縄に縛られている手首を持ち上げて、肩をすくめる。
「そうですか、ありがとうございます」
エドワードの身体にこびりついた血を丁寧に拭いながら、ミリアは震える声で続けた。
「エドさんは私たちにとって父親のような人なんです。本当にありがとう」
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