第52話 ただいまとおかえり
まぶたを鉛のように重く持ち上げると、白い天井が乳白色の霞に溶けた風景のように、ゆっくりと視界に滲んだ。
世界はまだ深海の底にあるようで、外の音はどこか粘ついた液体の膜に包まれ、鈍く遠くで反響している。
意識は長い眠りという繭からようやく剥がれ落ちたばかりで、現実と夢の境界線が、硝子細工のように儚く揺れていた。
乾いた喉の奥で呼吸を試みると、薬草と消毒液、そして鉄のような血の匂いが混じった空気が、幽霊の指先のように鼻先を掠めた。
ここは――冷たい静寂に支配された、組織の深部にある見知らぬ病室。
感情の温度を奪い去ったような無機質な空間に、孤独が音もなく沈んでいる。
だがそのすぐ傍に、「彼」がいた。
圧倒的な存在感――まるで重力のような気配が、ノアの不安を静かに押し潰していた。
窓から差し込む朝の光は、大理石の床に幾何学的な模様を描き出し、ベッド脇の椅子に深くもたれた人影を照らしている。
その姿は鋼鉄で象られた肖像画のように動かず、ただ、凛とした静けさだけを漂わせていた。
ノアは息を震わせながら、その名を口にした。
「……イザナ」
その声は秋の風に散る枯れ葉のようにかすかで、それでも確かに真実を求める響きを帯びて、静寂の空間に溶けていった。
イザナはしばらく動かなかった。
その横顔は彫刻のように静かで、時間そのものが止まったかのようだった。
規則正しい呼吸音と、機械の電子音だけが淡く響き、空間には「生」の気配よりも、ひどく澄み切った静止が支配していた。
だが――ノアの掠れた声がその静寂を裂いた瞬間、イザナのまつげがかすかに震えた。
ゆっくりと顔を上げるその動作は、凍りついた世界を再び動かすように、静かで、慎重で、痛ましいほどに遅かった。
夜の底を閉じ込めた鉱石のような瞳がノアをとらえる。
その瞬間、長いあいだ冷たく封じ込められていた氷の表面が、ひび割れるように揺らいだ。
その揺らぎは、安堵――けれどそれは静かな歓喜ではなく、魂の奥から滲み出た「帰還の確認」のようなものだった。
イザナは息を小さく吐き出し、唇の端をほんの少しだけ持ち上げた。
笑みというにはあまりにも弱く、しかし、誰よりも深い感情がそこに宿っている。
長い戦いの果てに、ようやく辿り着いた安息――その証のように、疲労の影が彼の瞳の底に静かに揺れていた。
ノアの胸の奥が、その一瞬に締めつけられる。
それは痛みに似た温もりだった。
ようやく戻ってこられたという実感と、彼がここまでの道のりを一人で歩いた事実が、心の奥で重なって波紋のように広がっていった。
――イザナの沈黙が、すべてを語っていた。
「……やっと起きたか」
低く落ち着いた声。
ノアは、夢と現のあわいに囚われたように瞬きを繰り返し、かすかに唇を動かす。
「どのくらい……俺は眠ってたの?」
「ひと月だ。……長かった。」
イザナは淡々と告げる。
「お前が眠っている間に、腐敗した上層の連中はすべて処理した。ECLIPSEも、再構築の最終段階に入っている。もう何も心配はいらない」
淡白な語調の裏には、張り詰めた孤独と、鋼のような意志の余韻が残っていた。
ノアの視線は自然とその手元へと引き寄せられ、イザナの袖に、まだ乾ききらない血の痕がこびりついているのを見つける。
その瞬間――
封じ込めていた過去の光景が、鮮明な奔流となって脳を貫いた。
砕けたステンドグラス。
研究所の金属の冷たさ。
冷たい夜に交わした約束。
幼い日々の笑顔。
活字をなぞるイザナの指。
そして――自分を包み込んだ、あの腕の温もり。
すべてが、記憶の堰を破って一気に流れ込み、ノアの身体が震えた。
息を詰まらせながら胸を押さえ、かすかに笑う。
「……全部、思い出したんだ」
その言葉に、イザナの瞳が一瞬だけ鋭く揺れる。
無音のまま、彼の内に何かが崩れ、また静かに戻っていくようだった。
ノアは唇を震わせながら続ける。
「小さい頃のことも、研究所のことも、全部……。なのに、一番大事なことをずっと忘れてた。――ごめん、イザナ」
イザナは黙ったまま、迷いのない動作で手を伸ばした。
その掌がノアの頬に触れる。血の通った温もりが、皮膚を通して心の底にまで染み込んでいく。
「謝るな」
短く、しかし優しく響く。
「お前は生きている。それでいい。……それだけが俺のすべてだ」
ノアは目を細め、涙のような光を滲ませた。
「イザナは……俺のために、全部を――」
「――もういい」
その声は低く、静かに遮る。
だが、そこに宿る響きは、世界のどんな暴力よりも穏やかで強かった。
イザナの瞳は、ノアの奥底を見据える。
「お前がここにいるなら、それで充分だ。残りのすべては俺が完璧に整える。何も気にするな」
ノアは、ただ頷くしかなかった。
喉の奥が焼けつくように乾いて、言葉を探そうとしても、ひとつも形にならなかった。外の世界がどれほど変わってしまっても、この一瞬、この静けさだけは確かに自分の現実だと、身体の芯で感じ取っていた。
長い眠りの果てにようやく戻ったこの世界は、記憶の継ぎ目がほつれ、色のにじんだ夢のようだった。見慣れたはずの空の青も、誰かの声も、どこか遠くの景色のように手触りを失っている。けれど、そんな曖昧な現実の中で、イザナの瞳だけが確かな存在感を持ってノアをつなぎとめていた。
――帰ってきた。
そう思えたのは、彼の瞳がそこにあったからだ。
長い時を越えてもなお、変わらずそこに宿っている冷たい闇と、誰よりも深い優しさ。その両方が、ノアの胸の奥をじんわりと満たしていく。
ノアはそっと手を伸ばした。
動作はゆっくりと、夢の続きを辿るように慎重で、触れたままのイザナの掌に自分の指を重ねる。触れた瞬間、静かな震えが二人のあいだを走った。指先から伝わる体温は、かつて幼い頃に感じたあの無垢な温もりと同じだった。
時の層を何枚も剥がした先にようやく辿りついた、懐かしい記憶の感触――それは、どんな言葉よりも確かな「再会」の証だった。
その温度が、ノアの中に残っていたすべての孤独を、ゆっくりと溶かしていった。
イザナの掌のぬくもりは、もう失われないもののように感じられた。
「……ただいま、イザナ」
イザナはまぶたを伏せ、短く息を吐いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「ああ。おかえり、ノア」
その声音には、安堵と静かな所有の気配があった。
ノアの帰還――それは、イザナにとって世界を再び掌に取り戻すことと同義だった。
病室の外では風が微かに鳴り、遠い空に薄く光が差し始めていた。
新しい世界が、ふたりの呼吸の音に合わせて、静かに目を覚まそうとしていた。
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